それをここに持って来なさい
マタイ14:13-21
イエスは数々のしるしを行われた。大抵の人は非科学的、非合理的と片づける。しかし、神の子キリストが、奇跡を行わないはずがない。
ここにパンの奇跡が記されている。イエスは五つのパンと二匹の魚で五千人の給食を行われた。いくら考えても有り得ないことだ。聖書は聖書、現実は現実か?それでは聖書はただの文学書、お話の本、飾りになってしまう。私たちの生き方に何の影響力もないことになる。
なぜ聖書は世界のベストセラー、ロングセラーか。人間の本質、生き方に深い影響力を持っているからだ。聖書の奇跡は、決して単なる寓話、象徴、作り話ではない。
大勢の群衆がイエスのもとへ来た。病、障がい、悪霊、悩みなどの問題を抱え、救いを求めていた。弟子たちは一つの難問題に直面した。群衆への食物がないのだ。彼らはまずイエスに提案した(15節)。しかし、イエス様からの返答は以外なものだった(16節)。
買って来る時間も財も人手もない。無理な注文だ。その時、少年が弁当を提供した(ヨハ6:8,9)。彼は主に対して精一杯の事をしようとしたのに、弟子たちは鼻であしらい、「…しかありません」(17節)と消極的、否定的なコメントをした。人間的な考えでは当然のことだ。私たちも限界だらけ、不足だらけの存在だ。これでは満足がない。
主は「それを、ここに持って来なさい」(18節)と言われた。持って行ってどうなる、と思うようなことだが、弟子たちは従った。その時、驚くべき事が起こった。わずか五つのパンと二匹の魚が男だけで五千人という群衆に行き渡ったのだ。しかもみな満腹し、さらにパンくずが十二かごに一杯になったのだ。前代未聞の出来事だ。欠乏は完全に満たされた。
原因は、弟子たちが「それをここに…」との言葉に従って、パンと魚を主のもとに持って行ったことにあった。もし持って行かなかったら、何も解決しなかった。食物がないという危機を乗り越えられたのは、問題を主のもとへ持って行ったからだ。そこに素晴らしい祝福が与えられた。
あなたはどんな問題をかかえているか、どんな重荷を負っているか。一番の問題は内面にある。神との関係が正しくなっているかどうかだ。
人間は神によって神のかたちに創造された(創1:26)。神と交わることができる存在として創られたのだ。しかし人は罪を犯した。神との交わりは破壊された。その結果は滅びだ(ロマ6:23a)。罪とは、神との関係が本来あるべき形ではないことだ。そのため人は生きる本当の意味を失い、自己中心になった。そこから様々な悪が出て来る。自分では解決できない。
しかし、解決の道が神によって開かれた。それがキリストの十字架だ。罪なき神の子が、私たちの身代わりに呪いの木にかかられた。裁かれるべき私たちが裁かれないために、御子が裁かれ給うた。罪の悔い改めと十字架を信じる信仰によって、誰にでも罪の赦しが与えられる(使徒13:38b,39)。
要はイエスのもとに行くか、罪・汚れを主のもとに持って行くかどうかだ。「それをここに…」との主の招きに応じる時、解決が与えられる(マタ11:28)。豊かな祝福の源はイエスにある。罪と汚れの問題の解決に与えられたら、そこから全ての問題が解決する。あなたは神の前に罪は解決されているか。神との関係は回復しているか。ここが解決したら、あとは何でも主のもとへ持っていける。
主の招きに応えよう。心を頑なにしてはならない。素直な魂を主は求めておられる。十字架の主は手を広げて待っておられる。