アルファでありオメガである方
黙示録1:1-8
本書は、世の終わりが近い今日に生かされてる私たちへの神の重要なメッセージだ。老聖徒ヨハネが、ローマの迫害の下、流刑先パトモス島で神から見せられた終末の幻を書き記した。これを読んだ苦難の中にある教会は、鋭く刺され、また励まされ、主の再臨待望へと心が向けられた。
ヨハネの黙示と言わず、「イエス・キリストの黙示」(1節)と言う。キリストが自ら、すぐにも起こるべき事をヨハネに示された。実際は執筆後2000年近く経過している。しかし神の目には一日は千年、千年は一日のようだ(2ペテ3:8)。
使徒ヨハネは、神の言葉を「見た」(2節)と言う。彼は神の御言葉を通して目の当たりに見せられた幻を書き記し、付け加えることも削ることもせず、そのまま証しした。
本書は朗読されるべき書だ(3節)。神の言葉はしっかりと聞くべきであり、守り従うべきだ。なぜなら主の再臨の時が近づいているからだ。再臨は、御言葉を聞いて従って、待ち望んできた者には栄光の時だが、聞こうとせず、従わなかった者には裁きの時、減びの時だ。厳粛だ。
本書の読者はアジアにある七つの教会だ(4節)。聖書では七は完全数だから、本書は全世界・全時代の教会へのメッセージだ。「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」とは、過去、現在、未来にわたって変わることがない神であることを表す。「その御座の前におられる七つの御霊」とは全ての教会に遣わされている聖霊のことだ。ペンテコステの日以来、神の御座から遣わされて、私たちに完全な祝福、全き救いを与えてくださるのが御霊だ。
「確かな証人…」(5節)は、第3版では「忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方」とあるから、キリストのことだ。キリストこそ確かな、神に忠実な証人で、神の御心に徹底的に従われた主の僕だった。一度死を味わわれたが、死者の中から初穂として甦られた御方だ(1コリ15:20)。このお方が、昇天されて、神から全ての名に優る名を賜った御方だ(ピリ2:9-11、新聖歌142番)。
この主が、罪人のかしらたる私たちを王国、祭司にしてくださると言う(6節、1ペテ2:9)。私たちに十字架の血によって罪の赦しを与え、さらに内側が全く聖くされるという全き救いに与らせてくださる。こういうキリストに栄光と力が永久にあれと、著者はほめたたえるのだ。
このお方は、雲と共に再び来られる(7節)。雲に乗って昇天されたキリストは、同じ様で再臨される(使徒1:11)。そして、全ての人の目は主を仰ぎ見る。特に主を突き通した者は、はっきりと見る。イエスを十字架につけたのはこの自分の罪だったと分かり、悔い改め、十字架を信じた者、そして内に残る肉の姿が分かり、十字架で始末をつけた者が、再臨の主を拝することができる。
神はアルファでありオメガであられる御方、初めであり終わりであられる主だ(黙21:6、22:13)。昔も今も未来においても変わることなく在(いま)し、全能の神であられるお方だ。その永遠不変の神が、そしてその御子であるイエスが、私たちの信仰を始めてくださり、最後まで完成してくださる(ヘブ12:2a)。いつも生きていて私たちを完全に救うことができるイエス(ヘブ7:25)が、私をも主を仰ぎ見る者にしてくださるのだ。
それは実際生活の中で、いつも主を仰ぎ見て進む者とするだけでなく、やがて来るべき日に、白い御座に着いておられる主を拝し(黙20:11)、新天新地の成る栄光の朝(同21:1)に、主の御前に立つことができる者にしてくださる。ハレルヤ!