あなたの心を見守れ
箴言4:20-27
箴言には、神が私たちに教えてくださる諭し、すなわち御言葉こそ、私たちの心に知恵を授け、私たちを堅く真っ直ぐな道に歩ませるものだというメッセージに満ちている。
まず、23節の「泉」に注目したい。乾燥地帯において水源の確保は死活問題に関わる。だから、「いのち」に直結する。泉が湧くことは神の祝福であり、泉によって自らを潤し、他を潤していくことができる。ただし、それは守らなければ、失われたり汚されたりしてしまう(箴25:26)。神は私たちの心にも泉を湧かせてくださる。私たちはそれを守らなければならない。24節で唐突に「口」が出てくるのはなぜか。心は口に繋がっていて、心の状態が口に出るからである(箴10:11、マタ15:18)。次いで、「目」とある(25節)。心の目がどこを向いているか、ということである。「足」(26, 27節)も同様、どんな歩みをしているかが、心と密接に関わっている。このようにして、あなたの心はどうなっているかが問われている。
主は私たちの心を見ておられる。私たちは、とかく人を外側に現れたところで評価する。だが、主は人の内側にある心に目を留められる(1サム16:7)。主の目はあまねく全地を行きめぐっていて(2歴16:9口語)、私たちひとりひとりの心をつぶさに見ておられる。そのような主の前に、私たちも自らの心を見るべきである。今日の箇所のように「口」「目」「足」といった切り口で私たちの心を見ると、大変わかりやすい。例えば、次のような光が当たらないだろうか。私たちの口は真実だろうか。口をもって自分の心を欺き(ヤコ1:26)、不義を出していないか(ヤコ3:5, 6)。神に目を向けているか。神のほうを見てもいないのに見ていると言い張っていないか(ヨハ9:41口語)。自分の盲目に気がついているか(黙3:17,18)。真っ直ぐに歩んでいるだろうか。これまで歩んできた道を省みて、主の導きに感謝しているか(エレ31:21)。今現在、主の前に真っ直ぐな道を歩んでいると言えるか(ヘブ12:13)。このように私たちは自らの心を見ていきたい。
しかし、私たちは自らの力によって自らの心を守ることはできない。心を守るのは私たちだが、その心に泉を湧かせてくださるのは主である(23節)。私たちは、罪と肉のために、もはや自力では神に喜ばれる心を持つことができない。その罪から解放し、肉の始末までつけてくださるために、イエス・キリストが私たちに与えられた。罪が赦されて義とされ、肉の始末を経た者の心に、主は新しいおきてを置き(エレ31:33)、私たちの心に住んでくださる。そして、私たちの心を守ってくださる(ピリ4:7)。主は私たちの内側から働き、私たちの口を守り(箴16:1、詩141:3,4)、神に喜ばれるものを見分け(エペ1:17-19、ロマ12:2)、主に確かにされた道を歩んでいくことができる(箴16:9)。
それこそ、まさに心に泉の湧いた者の歩みである。私たちは、この泉からいのちの水を湧き出させ(ヨハ4:14)、川を流れさせる(ヨハ7:38)。私たちはこの泉を主によって守っていきたい。私たちの心を見られる主の前に、私たちも自らの心を見続けていきたい。