神のわざが現れるため
ヨハネ9:1-12,35-41
イエスとの出会いは、人の生き方に決定的な影響を及ぼす。この盲人もその一人だ。当時の社会情勢から、生まれながらの盲人だった彼には、物乞いがただ一つの生きる道だった。彼は、絶望的な暗黒の人生を余儀なくされていた。
そこヘイエスが通りかかられ、彼を見られた(1節)。イエスは私たちを見てくださるお方だ。弟子たちの質問(2節)から、病や障害は罪と関係があるという、伝統的な通念があったことがわかる。それに対してイエスは、神のわざ(=救い)が現されるためだと言われた(3節)。神の御心は、私たちを逃れられない宿命の中に閉じ込めることではなく、そこから解放し、自由にすることだ。
イエスはご自分を「世の光」と言われた(5節、8:12)。闇に閉ざされた者に真の光をお与えになるお方だ。ご自分から近づき、救いを与えようとされるのがキリストだ。
イエスは唾(つば)で泥をこね、彼の目に塗って、シロアムへ行けと言われた。これがこの時の主の方法だった。神のわざが現されるためには、神の方法が必要だ。そのときは不可解でも、信じて従うことだ。彼は、されるままになり、言われるままにシロアムへ行って洗った。これが彼の信仰だった。シロアム(遣わされた者)へ行くこと、これこそ主の方法だった。
「遣わされた者」とはキリストのことだ。キリストは神と等しい御方であられたが、私たちのために肉体をとって世に来られた(ピリ2:6-8)。しかし私たちは御子を十字架につけた。十字架はこの世の知恵では愚かにしか思えないのだ(1コリ1:18,21-25)。けれども、十字架こそ神の方法だった。滅びゆく私たちが救われるためには、罪なき神の子の血が流されなければならなかったのだ。
彼はそのまま信じたから救われた。盲目の闇から解放された。しかし、その後、パリサイ人らの尋問を受けた(13-34節)。イエスを救い主と認めない彼らは、執拗に彼を尋問した。迫害の中で彼の信仰は試され、確かなものになっていき、ついに彼はイエスをキリストと確信した(33節)。彼は会堂を追放され、全ての社会的権利が剥奪(はくだつ)された。そのような彼をイエスは見つけ出された(35節)。社会からも両親からも捨てられ、より頼むべき人間的な拠り所を失った彼を、主のほうから探し出されたのだ。
彼は、人の子を信じるかとの問いに、「主よ…その人はどなたですか」(36節)と言った。キリストを信じたいとの渇きが起こされたのだ。より頼むものを全て失った自分には、キリストしかいないと思ったのだ。これは魂の開眼だった。
魂の開眼こそ最も大切だ。パウロの祈りを思い出す(エペ1:⒖-21)。魂の目が開かれたら、私たちのために備えられている望みが、私たちの受け継ぐ栄光の富が、そして私たちのうちに行われる神のみわざがわかる。
イエスは「見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるため」(39節)と言われた。見えなければならないのは、自分の姿とキリストの姿だ。私たちは罪のため滅びゆく者だった。しかし、キリストは私たちのために十字架にかかられた。私たちは罪を悔い改め、十字架を信じれば、その信仰によって罪の赦しが与えられる。この救いをいただきたい。
「神のわざが…現れるため」。主は、私たちの魂の内に開眼のみわざをなそうとしておられる。砕けた心で一心に求め、柔らかい魂で信じよう。目の開かれた魂にしていただこう。
イエスは「だれも働くことのできない夜が来ます」(4節)と言われた。主が働かれる恵みの時代の終わる時が近づいている。恵みをいただくことを先に延ばしてはならない。今こそその時だ(2コリ6:2)。