私たちのための主の計画
エレミヤ29:8-14
イスラエルは、ソロモンの子レハブアムの代に南北に分裂した。ヤロブアムが北王国イスラエルを建てたのだ。しかし、北王国は紀元前721年にアッシリヤ捕囚となり、南王国は紀元前586年にエルサレムが陥落してバビロン捕囚となった。そんな時に南王国に立てられた預言者がエレミヤだ。
主は、エレミヤを通して、捕囚の民にイスラエルに帰ることができるとの約束を与えられた。主は、主ご自身が持ち給う計画を示された(11節)。その計画は、民に災いを与えようというのではなく、平安と将来と希望を与えようというものだと言われる。神が民を必ず故国に返すという計画であり、捕囚の憂き目にあっている民への励まし、慰めだった。
これは私たちへのメッセージだ。主が私たちに対して持っておられる計画は、私たちの贖いと深く関係している。主は私たちを愛しておられる。そのために独り子を十字架につけられた(1ヨハ4:10)。私たちの罪のための贖いだった。
私たちは、思いと行いにおいて神に逆らう罪の奴隷だった。神に対して罪を犯した者であり(詩51:4)、生まれながらの罪人であり(詩51:5)、滅び行く者だった(ロマ6:23a)。
しかし、私たちが受けるべき罪の罰を、キリストが代わりに受けてくださった。罪なき神の子が十字架にかかられたのは、私たちに罪と滅びからの救いを与えるためだ。この救いは、誰にでも無条件で与えられる恵みだ(ヨハ3:16、ロマ5:8、3:24)。条件があるとすれば、罪の悔い改めと十字架を信じる信仰だけだ(1ヨハ1:9,7)。
神は、それほどに愛された私たちを、敢えて災いにあわせることはなさらない。主の賜物は、平安、将来、希望だ。これらは私たちが本来持ち合わせていないものだ。持っていると思っている平安も将来も希望も、何の保障のない、はかないものだ。これが生来の罪あるままの人間の姿であり、かつての私たちの姿だ。
主はそのような私たちを、キリストの十字架によって贖ってくださった。罪が赦されて、平安が与えられる。神との和解だ。また将来が与えられる。生き方が決まったのだ。そして希望が与えられる。天国の希望だ。
私たちはこの救いをいただいた。しかしそれで万事解決ではない。自己中心の性質が残った肉のままでは、真の平安がないからだ。普段は平穏でもすぐに波風が立ち、時には嵐にもなり、隠れていた醜いものが表面に出てくる。愛せない、従えない、喜べない、感謝できない…という己が頭をもたげる。そういう自分に心底嫌気がさし、渇いて主の前に出て行くなら、主は十字架の完全な贖いを示される。古き人を十字架につけて己に死ぬというところを通って、キリストが内住してくださるという信仰へと開かれる。
この信仰で生きる者になる時、真の平安、まことの安息が与えられる。キリストが私の内におられるという信仰から、動かされない平安が与えられ、主の御心に従い、自分のためではなく主のために生きようとする真の将来が開かれ(2コリ5:15)、そして真の希望、信仰による希望がはっきりとするのだ(ロマ4:17b,18a)。
これが、私たちすべての贖われた者に対する計画だ。主の御前に出て求めよう。約束を信じて求めよう(12節)。しかも、一心に(13,14節a)、御言葉の光に従いつつ求めよう。
警戒すべきはサタンだ(8節)。世の終わりが近い今日、惑わす霊が活発に働く。敵を見破り、また敵に乗せられることなく、主にのみ信頼し、従っていこう。