彼らが祈り終えると
使徒4:23-37
使徒の働きは、聖霊の働きの記録だ。ペンテコステ以後、弟子たちは全く変貌(へんぼう)された。群衆に大胆に証しし、悔い改めが起こされ、大勢が救われた。そして先週見たように、美しの門でのみわざが現わされた。
その美しの門でのみわざがきっかけで、弟子たちに迫害の手が伸びた。議会がペテロとヨハネを逮捕し、投獄したのだ(1-3節)。従来の弟子たちなら逃げ出していただろう。しかし彼らは立ち上がり、イエス以外に救いはないことを大胆に証した(12節)。それを見聞きした人々は、彼らがごく普通の人たちであることに驚いた(13節)。そして彼らを尋問する者たちは、返す言葉もなかった(14節)。これこそ聖霊がなされるみわざだった。
弟子たちが証しすることができた秘訣は、まず明確な救いの体験があったこと、そして鮮やかなペンテコステの体験があったこと、さらに主への愛と滅びゆく魂への愛に突き動かされていたことだ(詩106:23)。人間的な権威や知識がなくても、主の恵みと愛が内にあれば、主は証し人としてお用いになる。
指導者たちは彼らに宣教することを禁止した(18節)。しかし彼らは屈することなく、神に聞き従うほうを選び取った(19節)、彼らは、赦すも罰するも一切の権威を持っておられる神(マタ10:28)の前に真実であろうとしたのだ。
釈放されたペテロとヨハネは、仲間の所へ帰り、報告した(23節)。一同は喜び、神をほめたたえ、感謝した(24-26節)。ここで引用されているのは詩篇2:1,2だが、これは戦いの時の歌で、一方に神、他方に神に反逆する人間が対照されている。神はこの世に属する力と迫害とを嘲(あざけ)り笑っておられる(詩2:4)。この神と共に働く私たちも、迫害・困難にあっても、信仰によって神と共に笑うことができる。キリス卜が王として立てられたからだ(詩2:6)。王なるキリストの敵は必ず滅ぼされる。主は、この詩篇と同じことを行われると信じるのが彼らの信仰だった。
弟子たちは祈った。彼らが祈り求めたのは、脅迫がなくなることでも、危険から守られることでも、伝道しやすい状況になることでもなく、主の御言葉を大胆に語らせていただくことだった(29節)。キリストが王に立てられ、敵を嘲り滅ぼしてくださると確信したゆえに、こう祈ることができたのだ。
彼らが祈り終えると、神はただちに祈りに応えられた。「集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した」のだ(31節)。彼らは、自分たちの安全・安逸を願わなかった。ただ神の栄光が現わされることを求めた。神はそういう祈りに必ず応えられる。
主は、弟子たちが集まっている所を揺り動かせられた。聖霊が彼らに激しく臨まれたのだ。主は聖霊の力をもって彼らを勇気づけ、御言葉を大胆に語り出させられた。私たちも聖霊に力づけられ、主の証人として福音を伝えて行きたい(1:8)。
今の日本は迫害の時代ではない。けれども、世の力は主に従おうとする者に絶えず逆らって立つ。その中で私たちは、いつも主に属する者として御言葉に立ちたい。キリストの十字架と復活の福音を大胆に語っていきたい。今のこの平和な時に、世に流されずに、大胆に御言葉を掲げていれば、やがて迫害の時代が来た時に、臆することなく戦うことができるだろう。
私たちが信仰をもって祈り終える時、主は必ず立ち上がってくださる。主のみわざを期待しよう。