力と愛と慎みの霊
Ⅱテモテ1:1-18
本書は、パウロがネロ皇帝の迫害のもとで殉教(じゅんきょう)の死を遂げる直前に、愛弟子テモテにあてて書いた絶筆と言われている。彼は自らの死を目前にしているのに(4:6-8)、自分のことは顧みず、牧会する上で困難にぶつかっている青年牧師テモテを思って、彼に助言をしている。
テモテは、パウロと出会ったとき、すでに救われていた。彼の父はギリシア人だったが、母はユダヤ教からキリスト教に改宗したクリスチャンで(使徒16:1)、彼は祖母と母の影響を受け、キリストの十字架を信じる信仰によって救われるという「偽りのない信仰」(5節 新改訳第三版では「純粋な信仰」)を受け継いでいた。
彼は幼い頃から聖書に親しみ、御言葉を聞いてきた(3:14-16)。祖母と母は彼をそのように育てた。子どもの頃から御言葉を聞くことの大切さを教えられる。彼女たちは彼に信仰を継承させた。
信仰の継承と言うが、信仰は世襲(せしゅう)ではない。認罪-悔い改め-十字架信仰を通って赦罪-義認-神との和解-新生の救いを個人的にいただかなければならない。救いが不明瞭な、純粋でない信仰に陥らないように注意したい。親たる者は、わが子に純粋な信仰を受け継がせる責任があることを肝に銘じておきたい。
パウロが、自分の死期を前にして、霊の子どもであり、伝道牧会に困難を覚えていたテモテに一番言いたいことは、神が与えてくださった力と愛と慎みの霊を堅く守れということだ(7節、14節)。力とは、主に従う力、またその従順に基づいた宣教の力だ。意志をもって従うのだ。愛とは、神が独り子を十字架にかけられた、犠牲の伴った愛だ。そして慎みとは、神の御前での謙遜だ。力がない我ら、愛の足りない我ら、慎みに欠ける我らにも、この力と愛と慎みの霊が必要だ。
力と愛と慎みの霊は、イエスにあふれていたものだ。まずイエスには力が満ちていた。イエスは、どこでも大胆に人々に神の国のメッセージを語っていかれた。その宣教の力は、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている群衆に対する憐れみから発するものだった(マタ9:36)。
またイエスには愛があふれていた。十字架にかかられる前夜、世に残されていく弟子たちを最後の一息まで、最大限に愛し抜かれた(ヨハ13:1)。
そしてイエスには、十字架の死まで徹底して御心に従われた謙遜の心を持っておられた(ピリ2:6-8)。力と愛と慎みこそイエスの姿そのものであり、我らが内にいただきたいものだ。
力を、愛を、慎み深さを求めるのではない。主ご自身を求めるのだ。キリストを内にいただいて、力と愛と慎みに満ちた魂にならせていただこう。
困難はある。試みは来る。終わりの時代はなおさらだ。しかし、恵みによって内側から強めていただいて、意気そそうしないように、主を見上げて勝利し、前進して行こう。「臆病の霊」の臆病とは、罪とサタンに対する臆病だ。主の再臨が近い今、敵を恐れて後ろに引いてしまうのではなく、前に向かって信仰をもって進んで行こう。