神を喜ぶ生涯
ローマ4:25-5:11
本書には福音の恵みがわかりやすく説かれている。我らは神のかたちに創造されたのに、御言葉に背いて神との交わりが断たれた。罪に定められた我らは、例外なく滅びゆく者になった。しかし愛なる神は、我らに救いの御手を伸べ、御子を世に遣わされた(4:25a,5:8)。罪なき神の子が、我らの罪のために十字架にかかられたのだ。キリストの死は、我らのための身代わりの死だった。独り子を惜しみなくお与えになるほどの神の愛によって、我らは罪と滅びから救われた(4:7,8)。
罪を悔い改め、十字架を信じて、我らに赦罪が与えられる。そればかりか、一度も罪を犯さなかった者とみなされる。それが義認だ。キリストの復活は我らの義認の保証だ(4:25b)。
信仰によって義と認められた例がアブラハムだ(4:17-19)。彼は、高齢に達していても、神は約束通り跡継ぎを与えてくださると信じ、その信仰が神に喜ばれ、彼の義と認められた。我らにもこの約束が与えられている(4:23,24)。神の国を受け継ぐ約束、天の資産を相続する約束(1ペテ1:4)が、信仰によって義とされた我らにも備えられている。まず十字架を信じて、罪が赦され義とされた者になりたい。
アダム以来神に敵対していた我ら人間が、神との和解を頂けるとは、なんと幸いなことか(5:1)。義認は救いの土台であり、ここからスタートする。5章3~11節には、クリスチャンの勝利に満ちた歩みが記されている。喜びに満たされた生涯だ。苦難をも喜ぶと言う。なぜそう言えるのか。①苦難は忍耐を生み出すからだ。忍耐は苦しみの中からのみ生まれる。②忍耐は練られた品性を生み出すからだ。忍耐する中で心が鍛えられる。③練られた品性は希望を生み出すからだ。鍛えられた魂には失望に終わらない希望が与えられる。何と輝かしい歩みか。
しかし、ここで自分の現実の歩みに目を向けるなら、自分がなんと遥かに隔たっているか、遠く離れているかを思わざるを得ない。喜びや平安のない歩み、不平・不満に満ちた生活、失望・落胆の連続の日々ではないか。何と理想とほど遠い歩みをしていることか。
けれども、ここに記されているのは単なる理想ではなく、標準であり約束だ。「今立っているこの恵み」(2節)がポイントだ。救われ、神と和らがしめられて喜んでいる魂は、やがて自分の醜さが見えてくる。救われたのにまだ妬み深く、傲慢な己の姿に気がつく。御言葉の光に照らされていくと、自己の真相がわかってくるのだ。
しかし、キリストの贖いは完全だ。主は、過去の罪の精算のみならず、現在の自我をも始末してくださった。我らがごまかさず、繕わず、言い訳せず、自己の真相を直視して、このままでは嫌だと思い、すでに御業が成し遂げられている十字架を仰いで、己に対して死ぬなら、復活のキリストが内住されるという信仰をいただくことができる(ガラ2:19,20)。
ここを通った魂が、喜びと希望に満ちた生涯を始めることができる。神が我らに希望を与えられるのは、我らの内に住まわせた御子の霊を愛するゆえだ(ヤコ4:5)。この御霊によって、我らは子とされ、「アバ、父」と呼ぶことができる(ガラ4:6)。そこまでして子としてくださった我らを、神はこよなく愛してくださる。
これがクリスチャンの歩みだ。神がこういう力強い勝利の生涯を送らせてくださる。恵みもさることながら、恵みをお与えになる神ご自身を喜ぶ者となる(11節)。恵みよりも恵み主だ。何がなくても神ご自身を喜び、神ご自身で満足する、これがクリスチャンだ。
そこまで導いてくださる主を信じよう。義とされたことがどれほどの恵みかを思い、それを土台にどれほどの恵みが備えられているかを知ろう。贖いの恵みを感謝しよう。