礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.03.08

神との交わりにあずかる者

黙示録3:14-22

本書は、終末に関する神のメッセージであり、我らの救いの完成が表わされている。使徒ヨハネは、ネロ皇帝の迫害下、流刑先のパトモス島で、全世界の遠大な終末の幻を見せられ、記録した。

七つの教会に書き記せとの命令が与えられ(1:9-16)、七つの燭台と人の子のような方の幻が見せられる。これは主イエスご自身だ(1:17-20)。七つの教会とは、たぶん彼が牧会したことのある実在する教会だ。

ラオディキア教会へのメッセージは、「冷たくもなく、熱くもない」(15節)と言われているように、無関心の罪への警告だ。ラオディキアの町は、三つの貿易の道が交差する、アジアでの商業の中心都市だった。大きな銀行、医科大学、衣服工場があり、多くのユダヤ人が住んでいながら、皇帝礼拝、ゼウス礼拝が盛んだった。人々は、物質的な豊かさから、その信仰は生ぬるくなり、神に対して無関心になった。

彼らは「自分は富んでいる…」(17節)と傲慢になった。物質的な富に満足し、それよりはるかに大切な霊的な富の追求を忘れた。彼らは、自らがいかに惨めな、憐れむべき者であるかに気がつかない。彼らは、富んでいると思っていたが、実は貧しい者であり、見えていると思っていたが、実は見えない者であり、乏しいものは何もないと言っていたが、実は裸だった。

そんな彼らに、主は、三つのものを買えと言われた。金、衣、目薬だ(18節)。火で精錬された金とは、神を敬い畏れる信仰、全能の神への信頼だ。白い衣とは、義と聖きの衣、義認と聖潔(きよめ)の恵みだ。目に塗る目薬とは、自分がどういう者かが見えるためのものだ。

我らの魂にとって、順序としては第一に目薬だ。傲慢で、神を悲しませ、人を傷付けている自分の真相を知らなければならない。

第二に白い衣だ。そのような惨めな裸の者も、キリストの十字架の血で被われる。罪の赦しと義認の恵みが与えられる(ロマ3:24)。そのためには、認罪と悔い改めが必要だ(19節、詩51:17)。救いがはっきりしたら、自分の内に御心に沿わない古い性質があることがわかってくる。このままでは嫌だと思い、十字架を仰ぐなら、己に対して十字架で死んでキリストに内住していただくという聖潔(きよめ)の恵みに開かれていく(ガラ2:19b,20a)。そして、神の前に傷もしみもない者として立てる魂に造り変えられるのだ。

第三に精錬された金だ。神への信仰、すなわち神への絶対信頼と服従だ。従うことができるのは信頼しているから、また愛しているからだ。“ねばならない”という律法ではなく、恵みによって主に従うことができる。徹底して神の御心に従順であったキリスト(ヨハ5:19,8:29)に似る者となる。

「視よ、われ戸の外に立ちて叩く…」(20節文語)とは、素晴らしい神との交わりだ。内にキリストを宿し、御心を行うことを無上の喜びとし、神もわが心にかなう者と証し給う者、絶えず御心を伺い知り、ただ主が喜び給う事だけに専心する者になりたい。

主は我らの内に入りたいと願われる。我らのほうで戸を閉ざしたままではならない。信仰の扉を開けよう。十字架を仰ごう。主は語り続けられる。御声を聞いたら、戸の所まで行って、手を伸ばして開けよう。つまり従うことだ。いつまでも先に延ばすなら、いつか主は戸の前から去られる(雅5:2-6)。

扉を開けようとするとき戦いがある。サタンは黙っていない。開けさせまいと必死になって挑んでくる。しかし、我らが戦って、従って、開けるなら、主は直ちに入って王となり給う。「わたしが勝利を得てわたしの父と共に…」(21節)とあるように、我らが主と同じ立場に立たせられるとは、驚くべき恵みだ。神との交わりにあずかる者になりたい。本気で求めていこう。そして、終わりに時代に、心から再臨の主を待ち望む者とならせていただこう。