聞き従う魂
1サムエル15:1-35
子羊の血をもってイスラエルの民をエジプトから贖い出された神は、彼らを真実をもって愛し、憐れみをもって導かれた(エレ31:3)。彼らはいつも神ご自身によって直接治めていただいた。ところが民は次第に不満をいだき、サムエルに王を求めた(8章)。彼は反対したが、主が許され、最初の王が立てられた。それがサウルだ。
サウルは容姿端麗、頭脳明晰で、王たるに十分な資格を有していた。ロバを探し求めてきた時、サムエルと出会い、油を注がれた(10章)。それ以来、彼に新しい心が与えられ、神の霊の激しい迫りを受けた。王位に着くための正当的・公正な手続きであるくじが引かれ、サウルが当ったとき、彼は荷物の間に隠れたほど、謙遜な人だった。彼は30才で王位に着き、主より祝福を受けた。
イスラエルの王政は順調に出発した。しかし、王はすぐに躓いた。第一の躓きはサムエルを待てないことだった(13:5-14)。敵ペリシテ軍の優勢の前に、イスラエルは風前の灯火だった。サウルはサムエルから7日後に帰ってくると約束を得ていたが、一向に姿を現さない。敵は迫り、部下は離脱する中で、ついに待ち切れなくなったサウルは、自ら全焼のいけにえを捧げた。これは越権行為だった。サムエルは7日目の夕刻に来た。それを王は待てなかった。これは神への不信頼に他ならなかった(13:14)。
第二の躓きが本章に記されている。それは御言葉に従わないことだった。主の命令は、アマレク人を聖絶することだった(2,3節)。理由は、彼らが、出エジプトした神の民にあからさまに敵対したからだ(出17:8、申25:17-19)。ところがサウルはアマレクの王アガグを生かし、分捕り物の良きものを自分のために残した(9節)。彼にも、神に献げるつもりだったという言い分はあった(15,20,21節)。しかし、明らかに御言葉への不従順だった。
彼は、戦勝記念碑を建てた(12節)。自分の名声は残したいが、恥は他になすり付けようとした(15節)。肉の性質だ。彼は、主の御言葉に従ったと主張するが(13,20節)、実は従っていなかった。90%従ったとしても、100%ではなかった。主がお求めになるのは全き従順だ。
神への信頼と御言葉への従順こそ、クリスチャン生活の基本だ。これなしに神の恵みはない。知識、功績、年数、役職歴の有無ではなく、神への信頼と御言葉への従順が今あるかどうかだ。聞き従うことがいかに大切か(22節)。神が喜ばれるのは、どんな立派ないけにえよりも、御言葉に聞き従う魂だ。逆に聞き従わないことが、いかに主を悲しませるか(23節)。
主のご命令はアマレク人をみな滅ぼすことだった。アマレク人とは内なる自我だ。少しでも残すと、あとで何かにつけて神の民を惑わし、邪魔をする。自我は自力では滅ぼせない。キリストの十字架の血によってのみ可能だ。従えない己は十字架で死んで(ガラ2:19b、5:24)、どこまでも従われたキリストが内住されるという恵み(同20a)によって、いつでも、どんな事でも喜んで御心に従う者になる。
そのような者にならせていただきたい。そのためには、柔らかい砕かれた心で聞き従おうとすることが必要だ。神は、砕かれた悔いた心で求める魂を喜ばれる(詩51:17)。
主は、サウルを王としたことを悔いられた(35節)。神が失敗されたのではない。神のなさる事に間違いはない。神は初めから彼の弱さをご存じだったが、それでも敢えて信用して彼をお立てになったのだ。しかし、彼は不従順をもってしか応えられなかった。
主は、我らを贖ったことを悔いることは決してない。十字架の贖いは神の真実の表れだ。けれども、我らが傲慢になるなら、主は悲しまれる。どのような事があっても、主に喜んでいただける魂になりたい。