礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.01.19

良くなりたいか

ヨハネ5:1-9

イエスと心の深いところで出会って、虚しく帰った人はいない。悩む人は平安を、悲しむ人は喜びを、病は癒しをイエスからいただいた。

ここに登場する人物も癒しを得た。彼は極めて悲惨な状態にあった。場所はエルサレムの羊の門の傍ら、ベテスダの池のほとりだ。ベテスダ(憐みの家)とは素晴らしい名前だが、現実はそこには地獄のような光景が展開していた。

池を囲む五つの回廊に病人や身体の不自由な人々が伏せっていた。彼らは水が動くのを待っていたのだ。主の使いがときどき池に降りて来て水をかき回したとき(池はおそらく間欠泉で、水が湧き出たとき、主の使いが水をかき回したと見えたのだろう)、真っ先に入った者が癒されるとされていた。一種の迷信だが、彼らには迷信にでもすがるほか生き甲斐がなかったのだ。友人からも家族からも見放されており、心の拠り所が皆無の彼らには、せめて迷信でもと、一瞬の機会にかけていたのだ。

何と虚しい日々か。しかも、そこは人間の自己中心性が露骨に出る場と化していた。水が動いたとき、彼らは我先に池に突進した(7節)。他人のことなど考えておれない。人を踏みつけてでも一番に水に入ろうとした。身体の不自由な者はいつも後回しだった。みな社会の弱者だが、その中でも少しでも強い者が生き残るという厳しい現実だった。ユダヤ教の指導者、町の者、家族ですら、誰も近づきたがらない、そのような所に、イエスは足を踏み入れなさった。

「見て、…知ると、…言われた」(6節)という、38年間患う人に対するイエスの憐みにあふれた行動に注目しよう。

①第一に、イエスは見てくださる御方だ。彼がイエスに目を留めたのではない。主のほうから見られた。主は我らを見出してくださる御方だ。我らが罪の泥沼の中に沈むとき、主は見出してくださる。

②イエスは知ってくださる御方だ。彼が訴えたのではない。その前に主が知られた。主は、彼がどれほど苦しんできたかを知られた。主は我らを知り給う。我らの悲しみ、悩み、憂い、涙をことごとく知り給う(詩139:1-4)。

③イエスは語り給う御方だ。彼が叫んだのではない。主のほうから声をかけられた。主は我らに聖書の言葉をもって語りかけてくださる。聖書は神からのメッセージだ。その時々に、御言葉がどれほど励み、慰めになるかわからない。

イエスは彼に「良くなりたいか」と問われた。彼は、誰も助けてくれない、人が先に入ってしまうと答えた。長年治らなかった理由を述べた。人が悪い、社会が悪い…と原因を自分の外に見出そうとしたのだ。

彼は“はい、良くなりたいです”と答えるべきだった。長年の苦痛の中で、おそらく彼は人間不信に陥っていた。自分も他人も信じられない、開き直った生き方になっていたのだ。

イエスの問いは、彼のうちに激しい求めを起こさせた。主は彼に「起きて…歩きなさい」(8節)と言われた。癒すのは天使でも水でもない。人が助けてくれるからでもない。“私が癒す”と言われるのだ。彼はイエスを信じた。彼の内に信仰が呼び起こされた。彼は直ちに癒された。主を信じたからだ。

イエスの十字架を信じて、罪からの救い、汚れから聖めをいただこう(2コリ5:21)。「良くなりたいか」と今も主は我らに問われる。はっきりと答えて、主から救いをいただこう(マル10:51,52)。イエスが彼を癒されたのは安息日だった(9節b)。主は我らに真の安息を与えてくださる(マタ11:28)。我らを罪と汚れから救う唯一の救い主イエスを信じよう(使徒4:12)。