礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2020.01.01

神の栄光を見させてください

ヨハネ11:38-46

神が我らに求め給うものは信仰、神が成し給うと信じる信仰だ。イエスがマルタに要求された信仰は、不可能を可能にする神への信仰だった。人間的には絶望であっても、成し給う神を信じる信仰だ。

ベタニヤのラザロは、重病で危篤だった。イエスに知らせが届けられたが、主は「この病気は死で終わるものではなく」と言われ、「神の栄光のためのものです…」(4節)と言われた。主がベタニヤヘ行かれたのは、ラザロの死後4日目だった。それは主が多忙だったからではなく、冷淡だったのでもなく、ただ神の栄光が現されるためだった。

イエスは墓の前で涙を流された(35節)。その涙は、①親愛なる友の死への隠さぬ追悼の涙、②肉親の死を悼む人々への深い同情の涙、③死に定められた罪人への憐れみの涙、④人間を死に縛り付けるサタンヘの激しい怒りの涙だった。

イエスは、墓の入り口の石を取りのけるよう命じられた。マルタは「主よ、もう臭くなっています…」と言った。当然の反論だ。誰が見ても正論だ。しかし主は、「信じるなら神の栄光を見る、と…」(40節)と言われた。常識から逸脱しているとも取れるし、盲信的とも取れる言葉だ。しかしこれが信仰の言葉だった。

主は、「わたしはよみがえりです。いのちです…」(25,26節)と言われ、マルタに信じるかと尋ねられたとき、彼女は「はい、主よ」と答えた(27節 口語訳では「主よ、信じます。」)。しかし、それは頭だけの信仰だった。いざ信仰を働かさなければならない場面で、働かすことが出来ない。人間的な常識だけが働き、無理だ、出来ない、不可能だ…と判断してしまう。

神のお求めになるのは、この世的な常識ではない、信仰だ。自分にはできないが、神にはできると信じる信仰だ。非常識なのではない、超常識だ。人間的には不可能で絶望だが、全能の神には可能だと信じる信仰こそ、神は喜ばれる(ロマ4:17,18)。

イエスがラザロを生き返らせられたのは、マルタたちが、お言葉ですから…と従って石を取りのけたからだ(41節)。嫌々、渋々、半信半疑ではなく、信じて従ったからだ。ラザロは生き返り、多くの人々がイエスを信じ、神の栄光が現された(45節)。

神は、我ら一人一人の魂に救いと聖潔(きよめ)の全き贖いのみわざを成したいと願われる。御言葉に従えば、必ず全き救いに導かれる(ヤコ1:22b、21)。また教会に、そして家庭や地域に栄光を現したいと願われる。我らはそのために祈るが、どれだけ信じて祈るだろうか。

神は御業を行いたいと願われるのに、我らが不信仰なら行うことができない。不信仰とは神を信じないことだ。これがどれほど神を悲しませることか(マル6:5,6a)。

神が最も喜ばれるのは、我らの功績や手の業ではなく、主がなし給うと信じる信仰だ(ヘブ11:6)。信じるなら神の栄光を見る。信じないから栄光を見られない。単純明快だが厳粛な事実だ。

神の栄光を見せていただきたい。もっと主を信じよう。信じると言ったら徹底的に信じることだ。「このことを信じますか。」(26節)との鋭い問いは、我らに向けられている。「主よ、信じます」と答えたい。

我らのために御子をも惜しまずにお与えになった神を、我らの救いを十字架上で成し遂げてくださった神の子イエスを、我らの救いと聖潔の全き贖いを完成してくださった主を、わが主と信じ、信頼しよう。