真実に守り給う神
詩篇121:1-8
この詩篇は、エルサレムの神殿で礼拝をささげようとして、はるばる旅に出る人々によって歌われた。エルサレムに向けて出発しようとする人は、旅路の不安を覚え、山に向かって目を上げている(1節)。しかし、助けはどの山からでもなく、天地を創造し、万物を支配し給う主から来る(2節)。まずこの神を知るなら、その神から真の助け、救いが来ることを知ることができる。
神は我らを愛してくださる。なぜなら、神は我らを創造されたからだ(イザ43:1)。神は我らを、ご自身のかたちに創造された(創1:27)。神は我らを、神と自由に交わりを持つ者として造られたのだ。その神が我らを愛してくださる。どれほどかと言うと、いつも目を注いでおられるほどだ(3節)。
高熱を出して苦しむ子どもを、母は寝ずに看病する。しかし、疲れてついまどろむことがある。人間的な弱さのゆえだ。しかし神はそういうことが全くない(4節)。永遠の神、疲れることがないお方だからだ(イザ40:28)。神は我らに絶えず目を注ぎ、愛に満ちた眼差しを向けてくださる。
神は我らを、「右手をおおう陰」(5節)として守ってくださる。日中の強い日差しからも、夜の寒さからも(6節)、そのほかあらゆる災いからも守ってくださる(7節)。そして、「あなたのたましいを守られる」(7節)。神がご自身にかたどって創造し、神が息を吹き入れていのちをお与えになった我ら(創2:7)の全身全霊を、責任をもって守ってくださる。
我らは、この神に信頼していくだけだ。自分で自分を守ろうとするのではなく、守ってくださる主に委ねるのだ。そうするなら、旅の出発から到着まで、さらに帰り着くまで、主は守ってくださる(8節)。この真実な主に信頼して、安心して出発できるのだ。人生の旅路も、誕生から息を引き取るまで、さらには天の御国に至るまで、主は守ってくださる。主の守りは永遠、無制限だ(8節、マタ28:20)。
主はあなたを守られる。愛と真実をもって(エレ31:3)真の助けを与えてくださる。神の愛と真実がもっともよく現れたのはキリストの十字架だ。神の御子キリストがこの世に来られたのは、我らの身代わりに十字架にかかるためだった。
我らは罪人だ。神のかたちに創造されたのに、アダムが神に背いて以来神から離れ、自分勝手なわがまま放題の歩みを続けてきた。我らは、そのままでは確実に滅びだ。そのような我らのために、神は御子を十字架にかけられた。我らが受けるべき罪の罰を、罪なき神の子キリストが受けてくださった。それは、我らが罰せられないため、滅びから救われるためだった。
我らが罪を悔い改め、十字架を信じるなら、誰にでも罪の赦しが与えられる。そして、永遠のいのちを持つ神の子どもとしての特権が与えられる(ヨハ1:12)。「その名を信じた人々」とあるように、信じることが大切だ。何を信じるのか。キリストの十字架を信じるのだ。そして罪の赦しの救いをいただくのだ。
この救いを受け取った者が、神の愛と真実を深く理解できる。そして、神の豊かな守りを確信しつつ、神に信頼して歩むのだ。そういう者になりたい。求めていこう。守ってくださる主、救ってくださる主に信頼していこう。