礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2019.11.17

失われた者を捜して

ルカ19:1-10

福音書の中で、多くの人がイエスと出会っている。ペテロのように兄弟に誘われた人、サマリアの女のようにはからずも出会った人、ニコデモのように自ら会いに行った人…というように、様々な出会い方がある。ここに登場するザアカイは、たまたま自分の住む町にイエスが来られたのだが、彼が会いたいと切望して出て行ったところで出会った人だ。

彼はエリコの町で取税人のかしらという地位にあった。地中海沿岸に強大な勢力を誇っていたローマ帝国は、ユダヤを完全に支配下に収めるために、ユダヤ人から取税人を立て、間接的に徴税していた。それによってユダヤ人の直接の反感を緩和しようとしたのだ。徴税額は取税人の自由裁量に任され、定額をローマ政府に収めさえすればよかったため、取税人たちは法外な額を徴税し、私腹を肥やしていた。ザアカイはその元締めだった。

彼は権力と地位と財産をほしいままにしていたが、心は満たされていなかった。町の嫌われ者だったからだ。彼は町の人々を蔑み返していたが、平安はなかった。

そんな彼のもとに、イエスが町に来られるという知らせが入った。彼の内に、ぜひ一度イエスに会いたいという渇きがかき立てられた。イエスが到着されたと聞いて、彼は通りに飛び出したが、イエスの周りには既に黒山の人だかりで、背の低い彼には人垣の中のイエスを見ることができない。しかし、彼は諦めることなく、前にあったいちじく桑の木によじ登り、葉陰からイエスを見下ろした。

その時、驚くべき事が起こった。第一に、イエスが足を止め、上を見上げられた(5節)。葉陰に隠れていた彼の存在を知っておられたのだ。第二に、イエスはザアカイの名を呼ばれた(同)。その呼びかけは、今まで彼が聞いたこともない優しい呼びかけだった。第三に、イエスは彼に宿泊を申し出られた(同)。今まで町の人たちから憎まれ、疎遠にされていた彼の家に、イエスのほうで宿泊を決めておられたのだ。

イエスはザアカイの家に客となって入られた。その夜、イエスは彼に神の国の話をこんこんと語られたと推測できる。その中で、彼は自分の心と生活に光が当てられ、罪が示された。それは、彼の告白(8節)から知ることができる。彼には、今まで貧しい人たちへの愛などかけらもなかった。また徴税の仕方は神の前に間違っていた。そこに気づかされたのだ。

悔い改めるザアカイに、イエスは「今日、救いが…」(9節)と言われた。これは罪の赦しの宣言だ。彼は見事に罪から救われた。神の目から失われていたザアカイは、イエスによって見出されたのだ。

元来、人は神の御手によって、神のかたちに創造された(創1:26)。神との豊かな交わりの中に生きる存在として造られたのだ。ところが人は罪を犯して神から離れた。神のかたちは壊され、我らは神に背を向けて歩む者となった。我らは神の目から失われたのだ。その行く末は滅びだった(ロマ6:23)。

そのような我らを、神はなお愛され、独り子イエスを世に遣わされた(ヨハ3:16)。罪なき神の御子イエスは、我らの身代わりとして十字架で血を流して死なれた(ロマ5:8)。我らは、この十字架の前で罪を悔い改め、イエスの十字架を信じるなら、すべての罪が赦される。そして神に見出された者として、祝福の中を生きる者となる。

イエスが神から我らのもとに遣わされたのは、失われた者を捜して救うためだ。罪を持ったままでは神の目から失われていることを認め、見出していただきたいと求めて、イエスのもとに行こう。十字架を信じて罪からの救いをいただこう。