幸いなことよ
詩篇32:1-11
誰でも幸福になりたいと願う。しかし、幸福観は人によって異なる。聖書は、背きを赦された人、罪をおおわれた人、つまり罪を赦された人が幸いだと言う。
この詩篇はダビデの詩だ。この詩の背景には深い事情がある(Ⅱサム11章)。彼はイスラエルの王だったが、ウリヤの妻を横取りし、さらにウリヤを謀殺した。それでも彼には罪の自覚がなく、預言者ナタンの指摘によって、やっと自覚が生じた。彼は心から悔い改め、ただちに赦された。その時の詩だ。
1.神は我らの罪を赦してくださる
ダビデ一人のことではない。罪を犯したのは我らだ。いつ見ても自分は罪人だ。罪を犯した時だけではなく、いつもの自分の姿だ(詩51:3)。我らは一人残らず生まれながらの罪人だ(詩51:5、ロマ3:10)。我らは、神の律法に照らされれば、有罪は明白だ。神を敬わずに侮ってきた。偶像礼拝も平気で行ってきた。隣り人を傷つけてきた。自分を誇り、高ぶり、他人を見下してきた。すべて神に対する罪だ(詩51:4)。罪の支払う報酬は死、滅びだ(ロマ6:23)。義なる神は罪を必ず裁かれる。神は侮られる御方ではない(ガラ6:7)。
しかし、神は義であると同時に愛なるお方だ。神は我らを滅ぼしたくないと思われ、救いの道を設けられた。ダビデが赦されたのは、すぐに悔い改めて神の憐れみにすがったからだ(詩51:17)。神は、一方的な愛をもって我らの罪を赦してくださる。しかし、お情けでではなく、正当的な手段で赦してくださる。神は我らの罪を、キリストの死によって処分された。それがキリストの十字架の贖いだ。
神の御子キリストは、我らと同じ人となってこの世に来られ、罪のないお方だったのに十字架にかかられた(Ⅰペテ2:22,23)。我らのための身代わりだった。
罪を悔い改めて、キリストが私の代わりに十字架につけられて殺されてくださったことを信じて受け取るなら、我らに罪の赦しが与えられる(マタ9:2)。神は、キリストの十字架のゆえに我らの罪を赦してくださる。我らの努力や善行や功績のゆえではなく、ただ御子の流された血のゆえに、そのおかげで神は我らの罪をおおってくださる(ミカ7:19、イザ38:17、エレ31:34、イザ44:22)。これは神の愛であり、お恵みだ。
2.神は我らの魂を全く聖めてくださる
罪が赦された者は、心から主に従っていきたいと願う。しかし、自分の心を強く従わせることができないという現実にぶつかる。弱さのゆえに従うことができない。いや、もっと鋭く見ていくと、本当は主に従いたくないという自分がいることに気がつく。肉の姿だ。
御子の血潮で我らを贖ってくださった神は、そんな我らのままで満足はされない。神のみこころは、我らが神の御前に聖い者となることだ(Ⅰテサ4:3)。我らが、神に喜ばれない汚れた自分の姿を認め、キリストの十字架を仰いで、己に死ぬなら(ガラ2:19b)、よみがえりの主が内に臨まれる(同20a)。そしてキリストのいのちで生きるのだ。これが信仰によって生きるということだ(同20b)。
こうして我らは、全く新しく造り変えられた聖なる魂として喜んで神の御心に従う者になる。主のために生きていくことがどんなに幸いかを知るのだ。本当に幸いな人とは、この全き救いをいただいた者だ。
この世で幸福と言われるものは多い。そして幸福は自分で勝ち取っていくものと思っている人がこの世には多い。しかし、真の幸福は神から与えられる恵みだ。ぜひこの幸福を求めて、御前に出て行きたい。真の幸福をキリストのもとでいただいて、「幸いなことよ」と神から言われる人にしていただこう。