礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2019.11.03

新しいいのちで生きる

ヨハネ3:1-16

人はみな愛を求めている。しかし、多くの人は本当の愛がわからない。聖書は本当の愛とはどういうものかを示す。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された…」(16節)と、ヨハネは深い感動をもって述べた。この御言葉の背景にはイエスとニコデモとの対話がある。

ニコデモは、自分からイエスに会いにきた。彼は、①熱心に律法を守るパリサイ人であり(1節)、②地位も人望もある指導者であり(1節)、③老練で経験豊かな人であり(4節)、④知識も豊富なイスラエルの教師だった(10節)。このように熱心さ、地位、人望、経験、知識など、彼は人が羨望するもの全てを持っていた。しかし、何か満足がないと感じていた。だからイエスのもとへ来たのだ。

ただ、彼は夜、人目を忍んでやって来た。彼はイエスを「神のもとから来られた教師」(2節)と認めながら、パリサイ人という立場上、堂々とは来ることができなかったのだ。

そんな彼を、イエスは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3節)と、一見冷淡な応答で迎えた。彼はたじろいだ。「人は、老いていながら…」(4節)と自己弁護した。主の言葉が全く理解できないのだ。

主は、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も…」(14節)と、荒野の蛇の例を挙げられた。民数記21章の記事だ。「仰ぎ見なば生くべし」(民21:8文語)とあるように、青銅の蛇を見上げた者は、どんなに苦しむ者でも救われた。同様に「人の子」イエスも呪いの蛇として十字架にかかられた。信じる者が救われるためだ(15節)。

罪なき神の子が、極悪人のようにして呪いの木にかかられた。罪のため呪われるべき私たちが、救われるためだ。主の死は身代わりの死だった。罪なき方の血が流されて、初めて私たちに罪の赦しが与えられる。罪が赦されて、初めて新しく生まれた者になる。こういう者が神の国に入ることができる。

神の国に入るとは、①天国の希望が与えられることだ。死への勝利だ。国籍は天にある(ピリ3:20)。②この世で御国の生活をすることだ。感謝と喜びと賛美と平安の歩みができ、困難にも勝利できる(ロマ8:37)。③人にも喜びを与えていく生活を送ることができる(ヨハ4:14)。

新しく生まれる恵みをいただきたい。そのために神はひとり子を与えられた。求められることは、「信じる者がみな」(15節)、「御子を信じる者が、一人として…」(16節)とあるように、キリストを信じることだ。知識として知ったからとか、納得し理解したからとかではない。信じることだ。

ニコデモは、たぶん釈然とせずに立ち去った。しかし、後で分かった。それは、議会でイエスを弁護したこと(ヨハ7:50-52)、イエスの埋葬にも加担したこと(同19:39)から察せられる。彼は、イエスの十字架を仰いではっきりと分かり、信じて救われた。彼は新生した。

イエスとの出会いは必ず人を新しくする。ただそのままで主のもとへ行くことだ。新しくされなければ、主の前に立てない。御国に入れない。あなたはどうか。

キリストの十字架は、私たちを新しいいのちで生きる者にする。そのために神は御子を世に送られた。絶大な神の愛を感謝しよう。主を信じる者になろう。神の愛の体験者になろう。究極の愛が今も私たちに向けられている。そのまま受け入れよう。キリストの十字架の救いを受け取って、罪赦された最も幸いな者になり、いのちの光を持つ者にしていただこう。