礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2019.10.27

福音は神の力

ローマ1:1-17

10月31日は宗教改革記念日だ。強大な権力と富を持ち、霊的に腐敗した当時のローマ・カトリック教会に失望し、人が義とされる(神に受け入れられる)のは行いによらず信仰によるということに目が開かれたマルティン・ルターが、免罪符販売に抗議して、1517年10月31日に、ウィッテンベルグ城教会の扉に95箇条の公開質問状を打ちつけたことに端を発して、ドイツに宗教改革が起こった。

彼を宗教改革へと駆り立てたきっかっけは、「義人は信仰によって生きる」(1:17)との御言葉だった。これは今日も我らにとっても重要な真理だが、彼よりもずっと前に、パウロが信仰義認に開かれた御言葉だった。

1-17節のパウロの挨拶には、福音の紹介、御子イエス・キリストの紹介が述べられている。

まず福音とは、「御子に関するものです」(2,3節)。いかに高度な知識や技術でも、また神秘的な体験であっても、御子キリストに関するものでなければ福音ではない。キリストは、人間的にはダビデの子孫で(3,4節)、マリアから生まれたお方だが、聖霊によれば、復活されたことによって神の子たることが確証された。これが我らの主イエス・キリストであり(4節口語)、これが福音、良き知らせ、グッド・ニュースだ。

神であられた御方が、我らと同じ人となり、十字架にかかり、復活された御方こそ、福音の中身であり中心だ。

パウロは、自分はこのキリストのしもべであり、かつ召された使徒(全権大使)だと言う(1節)。使徒の使命は、全ての異邦人に信仰の従順をもたらすことだ(5節)。信仰と従順は裏表で、信仰は従順によって与えられる。御言葉を謙虚に聞いて素直に従うのだ(10:17)。そして罪を認め、神の前に罪を悔い改め、十字架わがためなりと信じるなら、罪が赦され、神に受け入れられ(義認)、-神との関係が回復され、神の子どもとして新しく生まれ変わるという救いが、どんな罪人にでも与えられる。

十字架によって救われた魂は、主の御心に従順な者になりたいと願う。ところが現実は、喜んで従うことができない自分の姿にぶつかる。そのような自己の真相に愕然とし、そのままでは進んで行けないと絶望する。そこから御言葉に聞いていけば、解決はキリストの十字架にしかないと気づかされる。そこで十字架を仰ぐ。その十字架に古い自分がキリストと共に死んでいることを、信仰によって受け取り、よみがえりのキリストが内に生きてくださることを信じる(ガラ2:19b,20a)。これが、パウロが体験した、キリストの死と復活に合わせられるという信仰だ。

キリストが内に生き給うという信仰で生きる時に、真の意味で従順な者になる。主イエスが御心に従われたように(詩40:8)、徹底して、しかも喜んで従う者になる。

我らを従順に至らせる福音とは、どういうものか(16節)。①神の力だ。どんな堅い魂をも砕く爆発的な神の力だ。②救いを得させる神の力だ。罪なき神の子が、罪の塊のような我らのために十字架にかかられたのは、我らに全き贖いを与えるためだ。③信じる者に救いを得させる神の力だ。ただ信じ従う者に与えられる無条件の恵みだ。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられる(1テモ2:4)。すべての者が救われるように、そしてすべてのクリスチャンがキリストのように神の御心に従順な者になるように、というのが神の願いだ。

福音は、信じ従う我らを救い、聖める神の力だ。福音の力を体得した者になろう。真に信じて従う者になろう。信仰の従順をもって進もう。困難や試練に対しても、勇敢に戦って勝利していく力を主からいただいて、前進していこう。