主のために生きる
Ⅱコリント5:11-21
本書は、キリストの使徒パウロがコリントの教会の信徒に書き送った手紙だ。彼は、罪が容認され、差別が日常化され、教理が歪曲されるというこの教会に、熱い思いを込めて書いた。この教会は、伝道困難な中で、彼が主からの励ましを受け、1年半腰を据えて宣教して生み出された教会だった(使徒18:9-11)。
我らは、一度限りの人生を明確な目的意識をもって生きたいと願うものだ。キリストを知る前の我らは、自分のために生きてきた。自分の時間、自分の財産、自分の、自分の…と。しかし、そうでないことが分かった。自分のために死んでよみがえったキリストを知ったからだ。
十字架に死なれ、よみがえられたキリストは、我らに何をしてくださったか。
1.我らの魂を生き返らせてくださった
我らはかつて、罪過と罪の中に死んでいた者で(エペ2:1-3)、罪のために裁かれ、滅び行く者だった(10節)。そんな我らを、主はご自身の血をもって救ってくださった。
罪なき神の子が十字架にかかられたのは、我らが神の義となるためだ(21節)。本来神だけが持っておられる義(正しさ、聖(きよ)さ、真実さ)が、罪人の我ら、不義なる我らに与えられるという。赦罪と義認だ。主の十字架の愛のゆえに与えられる恵みだ(ロマ5:8)。
まず、この神の愛を受け入れ、救いの恵みをいただきたい。すでに救いをいただいた者も、もし救いの確信がないなら、悔い改めと信仰をもってそのまま主の前に出よう。確信がない原因は、認罪・悔い改めの不徹底だ。
2.我らの魂を再創造してくださる
救われたら万事解決かと言うと、そうではない。「いつも喜んでいなさい…」(1テサ5:16-18)の御言葉を読むたびに、自分がこの御言葉からどれほどかけ離れているかを認めないわけにはいかない。
すぐに不平・不満、愚痴、人を批判したり、愛がない、赦せない、人と比較して浮き沈みしたり、感情によって左右されたり、という者だ。所詮こんなものと思ってはならない。キリストの救いを低く値積もってはならない。主は救いを完成されたのだ。
主は我らの身代わりに、我らを代表して十字架にかかられたということは、我らが十字架にかかったのだ。私がかかるべき十字架に、主がかかられただけでなく、私も共にそこに付けられている。神に喜ばれない一切の汚れた己に対して、十字架において死んで、よみがえりの主と共に生きるという信仰をいただくのだ。
「だれでもキリストのうちに…」(17節)とは、新創造の御業だ。一部の改善、補強ではない。根底からの造り変え、破壊と建設だ。
主によって新創造された者が、真に主のために生きることができる(15節)。真の献身の生涯だ。主が死んでよみがえられたのは、我らが己に対して死に、復活の主に内に生きていただく生活をするためだ。
魂の新創造はキリストの愛の迫りによるのだ(14節)。キリスト内住の恵みを得たとき、どれほどの愛の強迫だったかがわかる。そして主を愛し主に全てを献げで生きようとする。我らもこの恵みを得て、身も魂も神に献げたい。主が喜んでくださる生き方をする者になりたい。
魂が全く新しくされたい。キリストの愛による魂の刷新を得たい。真の献身の生涯を送るとき、我らの人生は新しくされた意味をもってくるのではないだろうか。