信仰による勝利
Ⅰヨハネ5:1-12
本書によく出て来る言葉は「光」、「愛」、「いのち」で、これらは福音が我らに与えるものだ。天地創造の神は、人間をご自身のかたちに造られた(創1:27)。しかし、罪を犯し、神との交わりは断絶され、滅びる者となった。そのような我らを、神はもう一度回復しようとされた。そのために必要なものが光(救い)、愛、いのちだ。
生きているものには、いのちがある。しかし、本当のいのちがあるか、真に生きているか、と探られる。真のいのちに溢れた者とは、世に勝つ者だ(5節)。真のいのちとは、神から与えられた永遠のいのちだ。世に勝たなければ真のいのちを持つとは言えない。
世に勝つ者とはどういう者か。①新生した者だ(1節)。「神から生まれた」すなわち、新しい誕生を経て、新しいいのち(ヨハ3:3)、神の子どもとしてのいのち(ヨハ1:12)、永遠のいのち(13節)を与えられた者だ。認罪-悔い改め-十字架信仰の手順を踏んで、赦罪-義認-神との和解-新生の救いが与えられる。認罪と悔い改めが土台だ(1:9)。ここが不徹底では新生はない。悔い改めたら十字架を仰ぐのだ(1:7)。
②証しのある者だ(10節)。明白な義認の証しが内にある。御霊が証しし給う。そして、外にもはっきりと分かる。祈りに、御言葉を聞く姿勢に、表情に変化が認められる。その変化は、教会や家庭における人間関係にも現れる。
③信仰の祈りをささげる者だ(15節)。滅びゆく魂のために執り成したい。「祈りて…いのちを与うべし」(16節元訳)。主は信仰に立った祈りを必ず聞き給う(ヤコ5:16)。
4節後半は、文語訳で「世に勝つ勝利は我らの信仰なり」とある。この勝利は、罪と世に対する勝利、そしてサタンヘの勝利だ。
イエスを神の御子と信じる者こそ勝利者だ。しかし現実は、勝ったり負けたりの情けない歩みだと認めざるを得ない。それは、新生しても肉のままだからだ。肉のわざは明白だ(ガラ5:19-21)。それらを内に持ったままでは勝利はないし、神の御国を相続することもできない。
キリストの血潮はこれに解決を与えた。自我の醜さを認めて厭い、キリストの十字架で己に死んで(ガラ2:19b)、よみがえりのキリストを内にいただくなら(ガラ2:20a)、内に御霊の実が結ばれる(ガラ5:22,23)。
この恵みによって、もはや罪を犯さない生涯を始めることができる(18節)。主への愛のゆえに罪を犯すことができないのだ(1-3節)。これこそ勝利者だ。場所、時、状況のいかんにかかわらず、世に勝つことができる(ロマ8:37)。このような真のいのちに溢れた者になりたい。秘訣はただ一つ。イエスを神の子と信じることだ。このキリストに対する信仰(ガラ2:20b)こそ、世に勝たしめる勝利の力だ。
最後に、見逃せないのは偶像礼拝への戒めだ(21節)。キリスト以外に信仰の対象を持たないことだ。キリスト以上に信じ愛するものはすべて偶像だ。神によって生まれた者の歩みが語られた後に、この戒めがあるということは、警戒していなければ危険に落ちるということだ(箴4:23)。
光、愛、いのち。これを得て、神に喜ばれる者になりたい。光の中を歩き、愛に満たされ、いのちに溢れたクリスチャンになりたい。砕かれた魂で主に近づこう。主は豊かに恵み給う。信仰によって勝利していこう。