たとえそうでなくても
ダニエル3:1-30
ユダ王国は前586年に新バビロニア帝国により滅亡し、多くの民がバビロン捕囚となったが、少年ダニエルもバビロンに連行された。ユダ族出身で、王族の一人だった彼は、バビロンでハナンヤ、ミシャエル、アザルヤと共に貴族の子弟の一人として訓練された。官吏となるためで、彼らにはベルテシャツァル、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴというバビロンの名前が与えられた。
神は彼らを豊かに祝福された(1:9、1:17、19,20)。特に神はダニエルに幻と夢を解く力を与え、彼はネブカドネツァル王の夢を解いて認められ、昇進した(2:48)。3名の仲間たちも高位についた(2:49)。しかし、これがカルデア人の妬みを買うことになった。
ネブカドネツァル王は、自分の権威を世に示すために巨大な金の像をドラの平野に建て、高官たちを奉献式に召集し、楽器の音と共に像を礼拝することを命じた。そして、違反する者には、火の燃える炉の中に投げ込まれるという厳罰を設けた。
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴも奉献式に列席したが、彼らは像を拝まなかった。カルデア人たちは彼らを王に訴え、怒り狂った王は3人を召喚し、尋問した。信頼し起用してきた3人を罰せねばならないのはつらいが、並み居る重臣たちの手前もあって命令は覆せない。
王はユダヤ人の唯一神への信仰を理解していなかった。ある程度妥協するだろう、厳罰をちらつかせば容易に折れるだろうと高をくくっていた。しかし、3人からは予想もしない反応が返って来た(16-18節)彼らは毅然たる態度で「しかし、たとえそうでなくても…」と答えたのだ。神は自分たちを必ず救い出し給う。たとえそうでなくても、決して像を拝まない。たとえ救い出されなくても、神への信頼を失わない。この真の神への絶対信頼に立っていたのだ。
この絶対信頼に神は応え給うた。彼らは、縛られたまま普通より7倍高温にした炉の中に投げ込まれた。投げ込もうとした屈強の男たちが焼死するほどの熱さだった。
彼らは瞬時に燃え尽きるはずだった。しかし、驚くべき光景が王の目に飛び込んだ。火の中を4人が縄を解かれて、何の害も受けずに歩いているのだ。しかも第四の者の姿は神々の子のようなのだ(25節)。
その4人目とは誰か。口語訳・新共同訳では「神の子のよう」とある。イエス・キリストのことだ。キリストは初めからおられたお方だ(ヨハ1:1,2)。受肉前のキリストが彼らと共におられたのだ。「たとえそうでなくても…」と絶対的に神に信頼する彼らに、神は御子キリストを送って守られたのだ(詩34:7、32:10b、2歴代16:9a)
3人は守られた。火から出た彼らは無傷だった(27節)。神は御子の血で贖い給うた者を、こちらが全幅的な信頼をもって従えば、神は完璧な守りをもって助け給う(イザ43:1,2)。
異邦人のネブカドネツァル王でさえ全能の神を認めた(28,29節)。3人の神への信仰・信頼は王に良き証しになった。
安利淑(アン・イスク)女史の著書に「たといそうでなくても」がある。日本の統治下の朝鮮で、日本は学校やキリスト教会に神社参拝を強要し、抵抗する朝鮮人を弾圧した。日本のキリスト教会も日本政府の政策に乗じた。1939年に安女史は、朴寛俊(パク・カンジュン)長老と共に帝国議会に陳情書を持参し、傍聴席から抗議文を議場に投下し、逮捕され投獄された。その後、安女史は日本の刑務所から平壌の刑務所に送られ、6年間の受苦を味わった。しかし、死刑執行の直前に日本に原爆が投下され、終戦を迎えた。終戦記念日を前に、記憶したい人物だ。
御子をも惜しまず十字架につけ給うた神に、絶対的に信頼し、従いたい。主はいかなる状況の中でも、守り、助け給うことを学びたい。真実な主の前に、真実な歩みをしていこう。