初めの愛に立ち返って
黙示録2:1-11
主は、信仰のゆえに迫害され、パトモス島に流刑になった老聖徒ヨハネに、7つの教会に手紙を書き送れと命じられた。その主の姿が1章13-16節に記されている。聖なる王、審判者としてのお姿だ。
一通目の手紙は、エペソにある教会に書き送られた(1-7節)。パウロの伝道によって基礎が据えられたこの教会は、異教的な影響下にあってよく戦った。労苦と忍耐をもって良い行いに熱心だったこと、悪に対して厳格で、偽使徒を見破ったことなど、誉められるべき点がいくつかあった。しかし、この教会には、初めの愛から離れてしまったという(4節)非難されるべきことがあった。これは決定的な欠陥だった。
初めの愛とは、ご自身の血をもって贖ってくださったキリストに対する愛だ。彼らには、どこから落ちたかを思い起こすよう戒められている(5節)。
初めの愛から離れる原因は、①かつて自分がどういう者だったかを忘れることだ(イザ51:1)。滅びゆく罪人のかしらであったことを忘れるのは、傲慢の罪だ。何者かにでもなったように錯覚するのだ。良い行いに熱心で、他者に厳格になる時にそうなる。
②主がどれほど憐れんでくださったかを忘れることだ。滅ぶべき我らのために、神は罪なき御子を呪いの木にかけられた。捨てられるはずのない神の子が、父からも捨てられたのは、我らのためだった。我らは、主にどれほど憐れんでいただいた者であるかを忘れてはならない(マル5:19)。忘恩の罪ほど神を悲しませるものはない。
③主がどれほど素晴らしい計画を持っておられるかを知らないことだ。罪の赦しだけでももったいない恵みだが、さらに聖潔(きよめ)の恵みまで用意されている。神に喜ばれない古き人が、信仰によって十字架でキリストと共に死ぬという体験をし、キリストが内住されるという恵みを信仰によっていただいて、我らは神の所有とされる(ガラ2:19b,20a)。神はそういう魂を信任して、御心を示し、主の栄光を現し給う。この計画を知らない、また知ろうとしないと、主への愛は冷える。
我らは、主への愛から離れていないか。救われたときの燃える愛は消えかかっていないか。主を愛するより自分を愛し、そのことで主がどれほど傷ついておられても無関心になっていないか。外側がいかに熱心でも、真面目でも、内に愛がなければ主は喜ばれない。どこから落ちたかを深く内省し、悔い改めよう。悔い改める魂に、主は愛の回復を与え給う。
二通目は、スミルナにある教会へあてられた手紙だ(8-11節)。エペソ同様、皇帝崇拝の中心地だったスミルナにおいて、信仰の戦いは熾烈(しれつ)を極めた。教会は、苦難と貧困、異端の中傷にもよく耐えた。それでもなお迫害の手が伸びた(10節)。しかし、彼らは信仰の戦いを最後まで戦い通した。まさに死に至るまで忠実だった(同)。
この教会も、主に対する愛のゆえに、死をも恐れずに主に従った。愛が回復された者の姿だ。肉の思いでは、主を最後まで愛せない。どうしても己への愛から離れられないからだ(ヨハ12:25)。しかし、信仰に立ったなら、内なる恵みによって、何ものにもまさって主を愛し、主に従うことができる。
忠実の動機は愛だ。愛なき忠実は律法に過ぎず、益のないものだ(1コリ13:1-3)。そしてすぐに不忠実になる。自ら愛のなさを思うなら、十字架のもとへ行こう。主は愛を回復し給う。そして死に至るまで忠実なしもべにしていただこう。最後の日に、栄光の主からいのちの冠を授けられる者にしていただこう(10節、ヤコ1:12、2テモ4:7,8)。