代価を払って贖われた恵み
Ⅰコリント6:12-20
コリント教会は、パウロの第二次伝道旅行において、厳しい宣教の中、主の励まし(使徒18:9,10)を受けて誕生した教会だったが、町の堕落の影響を受けて、教会は様々な問題をはらみ、教会員は混乱していた。そういう彼らに、パウロはもう一度キリストの福音の深さを語る。
彼は「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」(20節)と言う。我らも罪の奴隷状態(ヨハネ8:34)から買い取られた者だ。買い取られるためには尊い代価が払われた(1ペテロ1:18,19)。
罪なき神の御子キリストの血が流された。神と等しいキリスト(ヨハ1:1)、罪のないお方が、我らと同じ人間となり(同1:14)、へりくだって我らの所に来られ、ただ父なる神の御心に従順に従って、自ら進んで十字架にかかられた(ピリピ2:6-8)。そのようにして流された血は、傷も汚れもない小羊のような尊い血だった。
我らは、先祖伝来の虚しい生き方の中に埋もれていた、価値なき者だった。虚しさの原因は、先祖から受け継いだ罪であり、そのままでは滅びる者だった。魂が死んでおり、この世に流され、サタンに支配されて、生まれながら御怒りを受けなければならない者であり(エペソ2:1-3)、どこまでも神に背を向け、御心を踏みにじる傲慢不遜な者だった。
しかし神は、そんな我らのために、御子イエスの血という最高の代価を払われた。我らが贖われるためには、それだけの犠牲が必要だったのだ。神は、悔い改めと信仰をもって御前に出る者に、赦罪と義認を与えられた。さらにイエスの血は、罪からの救いのみか、汚れからの聖潔(きよめ)まで与える。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる…」(19節)とあるが、本書の受取人であるコリント教会の者たちは、汚れた生活を送っていた。肉の働きの中にある者は、神の国を相続できない(9節、ガラ5:19-22)。神は侮られる御方ではない。神は罪や汚れに目をつぶることはされない。救われてもなお神に逆らい、自分中心であり、思い通りにならないと我慢できないような者、自分の都合の良いようにしか信じ従わない、いや実は全く信じても従ってもいないという者…。これでは聖霊の宮とは言えない。
しかし、そんな我らにも尊いキリストの血の恵みは届く。血潮は、神に喜ばれない全ての汚れを潔め、傷なく汚れなき者として御前に立たせる。古き己がキリストと共に十字架で死に(ガラ5:24、2:19b)、信仰によってキリストの内住をいただいた者(同2:20a)が、初めて聖霊の宮となる。
我らをそこまでするために、神は尊い代価を払われた。それは、我らが神の栄光を現すためだ。つまり、①神の御心に従って歩む。生活の中で、小事に至るまで御心にのみ従うのだ。イエスが徹底的に父の御心に従われたように(ヨハネ5:19、8:29)、我らもその主のごとく歩むのだ。
②主を現していく。御心に従って歩む我らを、世の人は見る。我らを通してキリストの姿を見るのだ。生き方そのものをもって主を現していくのだ。肉のままでは現せない。だから聖霊の宮とされなければならないのだ。
我らのごとき者が、主の栄光を現せるとは!ここに贖いの深さがある。パウロは「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられること」(ピリピ1:20)が自分の願いだと言った。我らもこれを切実な願いにさせていただこう。