神の武具をもてよろうべし
エペソ6:10-24
本書に教会(クリスチャン)の姿が描かれている。罪によって死んでいた者(2:1—3)が、血による贖いにより、生きる者になった(同4,5)。神の祝福から遠かった者が、血によって近づけられ、神の民になった(同11-13)。さらに主と共によみがえらされ、天の処に座する者、つまり内住のキリストをいただく者になる(同6)。そういう者が神の家族とされ、組み合わされ、神の御住まいを建て上げる(同21,22)。これが教会だ。
まず、救いの恵みを感謝したい。かつていかなる者であったか、神はいかに憐れみ給うたか、キリストは何を為し給うたかを深く思いたい。そして、功なき者が、一方的な恵みと御子の贖いの御業で、義と認められた(ロマ3:24)ことを覚え、感謝したい。
さらに我らは、聖められた者になりたい。死んでいた者が生かされ、己に対して死に、キリストと共によみがえらされ、天の処に座せしめられた魂とされたい。救われたのに、まだ自己中心で、神の御心に心から喜んで従えない古き人が、キリストと共に十字架で死ぬという体験を信仰によってさせられ(ガラ5:24,2:19b)、内にキリストをいただき(ガラ2:20a)、キリストに専属する魂としていただきたい。
このようにして天の処に座する者となったら、いつまでも座り込んでいるのではなく、立ち上がって歩き出し(5章~6章)、さらに悪の霊と戦うようになる。
「主にあって」(10節)とは、英訳では“in Christ”、つまり内住のキリストの恵みをいただいてということだ。「その大能の力によって」(同)とは、全能なる神の御子としての力によってということだ。自分は無力だが、自分をも聖めてご自身のものにし給うた主の全能の御力によって、ということだ。我らは、この主の恵みによって初めて強められる。
悪魔は決して空想上の存在ではなく、実在する者だ。それは、策略を巡らす悪霊(11節)で、巧妙だ。ほえたける獅子のように(1ペテ5:8)、また光の御使いに変装して(2コリ11:14)近づいてくる。彼は暗闇の世界の支配者であり、天を居場所としている。相手が天の処に居るなら、こちらも天の処に居なければ太刀(たち)打ちできない。戦いは地上戦ではなく空中戦だ。こちらに備えがなければ戦うことができない。
神の武具をもてよろうべし(11節文語)。神の武具とは、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の大盾、救いのかぶとだ。さらに攻撃用として、御霊の与える剣(つるぎ)すなわち神の言葉、御霊による祈りだ。御言葉への信頼と従順に関しては、荒野の試みにおけるイエスが模範だ(マタ4:4,7,10)。
サタンとの戦いは空中戦だから、地上の方策では戦えない。戦って、しかも完全に勝ち抜くためには、内に恵みをいただかなければならない。まず自らが天の処に座せしめられた者になりたい。キリストを内にお宿しして、天の処に居る悪魔と戦うに十分な者になりたい。
悪魔は既に深手を負っている。アダムとエバが罪を犯したとき、神はその裁きの宣告の中で、はやくもキリストの勝利とサタンの敗北を告げられた(創3:15)。十字架において悪魔の頭は砕かれている。だから、なおさら必死に攻撃をしてくる。こちらが油断するとやられる。
多くの魂が悪魔の手中にある。目をくらまされ、滅びに向かっている。我らの使命は、敵の手から魂を勝ち取ることだ。それに備えて兵力を養っていただこう。