霊の真の乳を慕え
Ⅰペテロ2:1-10
ペテロは、小アジアに離散し、信仰の戦いの中にある信徒たちを励ましている。彼らを励まし得たものは、キリストの血による贖いの恵みであり、これは今日の我らをも励ます。
前章に、キリストの尊い血によって新生した人の姿が描かれている(1:3-12)が、本章には、新生した魂のさらに進んだ姿が示されている。
1.成長する―自分の魂のために
赤ん坊が母の乳によって成長するように、我らの魂の成長にとって不可欠なのは、純粋な霊の乳、御言葉だ。御言葉が語られている所に、低い、柔らかい、受け入れやすい心で出て行くなら、魂は進む。十字架と復活の混じりけのない福音を、激しい渇きをもって聞きたい。
2.築き上げられる―神に向かって
霊の家に築き上げられる(5節)とは、聖なる祭司となることだ。我らの大祭司とはイエスだから(ヘブ4:14)、それは、我らがキリストに似た者とされるということだ。これは恐れ多いことだが、救われた者への深い恵みだ。明確に救われた者は、必ず己れの汚れに気づく。そこで十字架を仰いで、古き人をつけて、己に対して死ぬという体験へ導かれる。そして信仰によってキリストに内住していただくなら、キリストの似姿が私の内に成る(ロマ8:29)。
シオンに選ばれた石、尊い礎石が置かれた(6節)。イザヤ書28章16節の引用で、それはイエス・キリストだ。礎石は建築物の存在を意味づける石で、それがなければ、建造物そのものの意味をなさないように、我らの信仰の礎石であるキリストなしには、一切は意味がない。キリストに対する信仰、十字架と復活に対する信仰こそ、我らの土台だ。
キリストは試みを経た石だ(イザ28:16)。私のために苦しまれた主だ。私の救いのための十字架と復活であり、私も共に合わせられる十字架と復活だ。この御方が基に据えられているなら、我らは失望せず、あわてない。
かつて我らは暗闇の人生をたどっていたが、キリストの十字架により救われ、光の人生に入れられた。さらに潔められ、もっと驚くべき光の中に入れられる。かつては汚れた者、選びからほど遠い者だった我らが、選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神につける民にすると約束されている。これが、神の憐れみによって与えられるキリストの尊い血による贖いだ(10節)。
3.語り伝える―人々の救いのために
これほどの贖いを得たら、この恵みを語り伝えずにはおれない。周囲の人々は滅びつつある。主の日は近い。手をこまねいて見ておれない。神は一人も滅びることがないように、忍耐しておられる(2ペテロ3:9)。その忍耐は、我らが救霊愛に燃やされるまでの忍耐ともとれる。キリストの愛に迫られて遣わされたい。
主は真実に約束を果たされる。ただこちらの渇きにかかっている。霊の乳を慕い求めて、御言葉への渇望をもって御前に出よう。