あなたの神、主を愛しなさい
申命記6:1-25
本書は、神がモーセを通してイスラエルの民に命令を申し伝えられた記録で、二度目の律法だ(10:1,10:10,29:1)。
イスラエルの民は、モーセによって出エジプトし、ホレブ山で十戎(律法)が与えられた。しかし、民は不信仰になり、神に背いて罪を犯したため、石の板は砕かれ、十戒は反故(ほご)になったかのように見えた。
しかし、真実な神は、彼らに再び十戒をお与えになった。それは、彼らを縛るためではなく、律法なしでは生きていけない彼らを生かすためだった。格別イスラエルを愛された主は、彼らに律法を与えて、カナンの地で御旨に沿う歩みをさせようとされた。神の御心は神の民が幸せになることだった。
一方的な恵みをもってイスラエルの民(我らと置き換えてよい)をお選びになった(7:6-8)主が期待されることは、彼らが律法を聞いて守ること、主を愛して従うことだった。
4,5節は律法の中心だ(マタ22:37)。律法を守ること、すなわち御言葉に従うことは、主への愛から発するものだ。義務感からでもなく、後で咎められることを避けたいからでもなく、私を愛してくださった主を愛したいから、従うのだ。
主がどれほど我らを愛してくださったかは、御言葉が示すところだ(ヨハ3:16、ロマ5:8、1ヨハ4:10)。我らは、神のかたちに創造され、神との交わりの中に生きるよう造られたのに、罪を犯した。神から離れ、自分勝手な道を歩んでいた。そのままでは滅び行く者だった。
そのような我らを、神はなおも愛され、御子を送られた。そして、罪なき神の御子イエスを十字架にかけられた。我らの身代わりだった。罪人の我らが捨てられるべきであったのに、捨てられるはずのない御子が捨てられた。この私の代わりだった。
それは、我らが罪赦され、義とされて、神のもとに立ち返るため、我らが神の子どもとして神に受け入れられ、再び神との交わりに生きる者になるためだ。これほどまでの主の愛が、我ら全てに向けられていた。
この主の愛を受け取ろう。罪を悔い改め、十字架を信じて、罪の赦しをいただこう。そこから主を愛する者へと進む。
主を愛するとは、どの程度だろうか。
①心を尽くして(with all your heart)。まごころから愛するのだ。格好だけではなく、偽りなく主を愛するのだ。
②精神を尽くして(with all your soul)。偽善ではなく、人の前ではなく神の前に、真実をもって主を愛するのだ。私を愛し、いのちを投げ出し給うた主に喜んでいただきたいという思いで愛するのだ。
③力を尽くして(with all your strength)。奉仕、献金、伝道など、具体的な行動をもって主を愛するのだ(ロマ12:11、2コリ9:6,7)。
主がどれほどの恵みを与え給うたかということ、そしてその主に対して我らはどうあるべきかを、子どもたちや周囲の人々に証ししていきたい(申6:20-25)。
精いっぱい主を愛したい。一番の愛を主にお献げしたい。もし、一番の愛は自分に向けたいとするなら、それは肉だ。主を愛し、従い、仕えるのを惜しむ自我は、キリストと共に十字架で死んで、キリスト内に生き給うという恵みをいただいて、その恵みによって真に主を愛する者になりたい。
御子をも惜しまず我らを愛し給うた主を、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛したい。