礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2019.04.21

イエスはよみがえられた

ヨハネ20:1-18

主イエスは、我らの罪のために十字架にかかって死なれ、墓に葬られたが、三日目に復活された。三日目の早朝、マグダラのマリアが主の体に香油を塗るために墓へ行った。少しでも早く主の体に香油を塗りたいという思いでいっぱいだった。

しかし墓の石はすでに除かれ、兵卒たちは眠り込んでいた(マタ28章)。彼女は主の体が取り去られたと直感した。主が生前よく語っておられた復活の予告を思い出したのだ。

彼女は、ペテロとヨハネに知らせに走った。彼らも走って墓へ行った。確かに主の遺体はなかった。誰が、何のために主の体を取り去ったか、謎だった。ユダヤの指導者らは、弟子たちが遺体を盗み出すことを警戒し、墓に封印し、番兵までつけたのだ。しかし、当の弟子たちには心当りがない。彼らは、まだ主が復活されたことを悟れなかった(9節)。ただ不思議に思いながら家へ帰った。

しかしマリアは帰ることができなかった。悲しみのあまり帰る気になれなかったのだ。彼女はただ泣くだけだった(11節)。彼女がどれほど主を愛していたかがわかる。

彼女は、もう一度墓の中を覗き、二人の御使いを見て、「だれかが私の主を…」と訴えた。振り向くと白い衣を着た人がいた。彼女は園の管理人と思い、主の体の引き取り方を願い出た。彼女の主に対する溢れるばかりの思いが伝わってくる。

彼女はなぜそれほど主を愛したのか。彼女は以前、七つの悪霊につかれていた。サタンの言いなりになり、家族や友人からも見捨てられ、放置されていた。どれほど惨めだったかわからない。しかしイエスと出会い、救いをいただいた(マル16:9,ルカ8:2)。彼女の喜びは想像に難くない。彼女は主に深い感謝の思いをいだいていた。かつての自分の惨めさを知っているだけに、感恩の思いは絶大だった。

ルカ7章に、町の罪の女が主の足を涙で濡らし、髪の毛で拭き、香油を塗った話がある。そのとき主は「彼女は多く愛したのですから」(ルカ7:47)と評価された。赦された恵みを深く感じれば、主への愛も大きい。マグダラのマリアも同じだった。

主は「マリア。」と呼びかけられた。彼女の純粋な思いは主に伝わったのだ。いつも聞き慣れた声に、主だとわかった彼女は、「ラボニ」と応えた。これもいつも使っていた言葉だ。悲しみと失望は喜びと希望に変わった。

このように、復活の主はまずマグダラのマリアに現れられた(マル16:9a)。公式記録ではペテロにまず現れられたことになっているが(1コリ15:3b-5)、実際はマリアが最初だった。彼女が復活の主に最初にお会いできた理由は、彼女の愛のゆえだ。主は、心から主を愛する者にご自身を現し給う(ヨハ14:21)。

我らも魂の内に主を現していただきたい。古き己に死んでキリストにわが内に生きていただきたい。キリストの死と復活は、歴史上の事実だけでなく、我らの内にも死と甦りの御業がなされる保証だ。

キリストの死と甦りに一つにされたい。イエスが十字架に死んで、甦られたように、私の内でも古き人が十字架に死んで、復活の主が内に生き給う恵みをいただきたい。主は、愛して従う者にご自身を現し給う。主を愛する者にされたい。