ここに愛がある
Ⅰヨハネ4:7-12
本書によく出てくる「光」、「いのち」、「愛」という言葉は、いずれも我らの救いに直接関わるものだ。
1.光
神は光なるお方だ(1:5)。義なる方、罪を裁かねばならない方だ。我らは義なる神の前に一人残らず罪人であり(ロマ3:10)、確実に裁かれ、滅ぼされるべき者だ。そのような我らの所に、神の御子キリストが来られた。
このお方によって、我らは光の中へと導かれる(ヨハ1:9、8:12)。魂に御言葉の光が差し込まれて罪がわかり、神の前に悔い改め、キリストの十字架を信じて罪が赦される(1:9、1:7)。そして、我らも光の中を歩む者になる。
2.いのち
天地創造の昔、神はご自身にかたどって人を造り(創1:27)、土から造られた人の鼻に息を吹き入れられ、人を生きる者とされた(創2:7)。神は人を、ご自身との自由な交わりの中に生きる者として創造されたのだ。ところが人は神の御言葉に背き、罪を犯した。神のかたちは壊され、神と交わりを持つことができない者になった。これが罪の原型だ。神のかたちが失われた我らは、真のいのちを持たない者になった(エペ2:1)。
魂が死んだ我らは、神の語りかけに応えず、愛がなく冷淡で、心が頑な者だった。そのような我らに、神はいのちを与え給う。神がキリストの贖いによって我らの魂を生き返らせ給うのだ。そこに現わされたのが「愛」だ。
3.愛
人はみな愛を求める。しかし、真実の愛が他のものにすり替えられ、ごまかされ、軽んじられている。真の愛とは、神の愛だ(8節)。
その愛の具現がキリストだ(9節)。キリストは2000年前に神から遣わされて、ユダヤに生まれた神の子だった。それは、我らを生かすためだった。我らは、罪のために、魂が死に至る病を患う者、罪の奴隷だった(ヨハ8:34)。そのような我らを生かすために、神は独り子を送られた。
神は、宥めの供え物(10節)、すなわち神に献げられる犠牲、贖いの供え物として御子を死なせることによって、我らを生かし給う。神は我らを生かすために、御子を十字架につけられたのだ。我らが神を愛したのではなく、神のほうから我らを愛し、最愛の独り子を十字架につけ給うたのだ(ヨハ3:16)。
神は犠牲を払われた。真実の愛は犠牲を伴う。神は我らを生かすため、救うために犠牲を払われた。そこにはどれほどの痛みがあったことか。ここにこそ真の愛がある。ほかでは見いだせない真実の愛、無条件の愛だ。この愛によって、我らは罪と滅びから救われる。
罪とは神からの離反であり、そこから生じる自己中心、わがまま、妬み、蔑む思いだ。これらはすべて肉の思いだ。肉の思いに縛られているうちは、まだ自由ではない。神の愛は、御子の十字架によって我らをそこから全く解放する。キリストがかかられた十字架に己も共に死に、我が内に復活のキリストが生き給う、というキリストの十字架と復活に合わせられる体験を、信仰によってさせていただくのだ(ピリ3:10,11)。
神は、御子を十字架にまでかけ給うた愛をもって、我らをそこまでしたいと願い給う。この愛に生かされるとき、真に他を愛する者になる(1ヨハ3:16)。
神は我らを救い聖めるために、御子を犠牲にしてまで愛し給うた。ここにこそ本当の愛がある。この真の愛、ほかでは見つけられない最高の愛を受け取ろう。捜し求めていくのではない。もう十字架の上に現されている。信仰をもって受け取ろう。