礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2019.03.24

回復の恵み

ルカ15:11-32

イエスが取税人や罪人たちを受け入れられたことを、パリサイ人や律法学者たちが非難したことをきっかけに、主は3つのたとえ話を語られた。100匹の羊のうちの失われた1匹の話、10枚の銀貨のうちの失われた1枚の話、そして2人の息子のうちの失われた1人の話だ。

3つには共通点がある。失われたものへの持ち主の愛(4,8節「見つけるまで」)と、見出したときの大きな喜び(6,9節「一緒に喜んでください」)だ。また、羊・銀貨と息子の間に相違点もある。前者はいずれも持ち主が探し出すが、後者は自分から帰ってくることだ。

失われた羊・銀貨・放蕩息子は我らの姿だ。罪を犯した我らは、神の目から失われた存在だ。元来我らは神のかたちに創造された(創1:26,27)。ところが神の言葉に背いて罪を犯した(創3:6)。そのような彼らに、神は「あなたはどこにいるのか」(創3:9)と問われた。神との交わりが失われたのだ。神のかたちに創られた我らが、神から離れたら滅びるしかない(17節「飢え死にしようとしている」、ロマ6:23a)。

しかし、神はそのような我らを、愛をもって探し出し給う。そのために神は、独り子キリストをこの世に遣わし給うた(1ヨハ4:10)。神は、この御子の十字架によって我らが神に立ち返って来るのを待ち給う。

我らは、罪を認めて悔い改め、キリストの十字架を信じるなら、神は十字架の血潮のゆえに罪を赦し、我が子として暖かく迎え給う(1ヨハ1:9、7a)。父親の言葉(22,23節)に我らの救いが表されている。「一番良い衣」は赦罪と義認を、「指輪」は所有を、「履き物」は主を見上げて従っていく確かな歩みを、「祝宴」は神との交わり、つまり救われた後の聖い生涯を表す。この神との交わりこそ、我らが失っていたものだ。

放蕩息子は本心に立ちかえった。父はそれを待っていた。神は、我らが本心に立ちかえるのを待ち給う。こちらが主のほうに向こうとするなら、直ちに神は走り寄り給う。このような者が神に迎えられるとは、何という恵みか。罪のために死んでいた者が、生かされ、回復される起死回生の恵みだ。

放蕩息子の話には続きがある。兄の姿が25-32節に描かれている。彼は初めから父のもとにいたが、父の思いが理解できない。彼には、弟よりも優れていると思う傲慢と、弟が歓待されたことを喜べない妬みがあり、弟の帰還を喜ぶ愛がない。結局、自分が一番かわいいという自我の姿だ。

しかし、キリストは全き贖いを成し遂げ給うた。我らは、喜ぶ者と一緒に喜ぶことができない古き人(ロマ12:15)が十字架でキリストと共に死んで、復活のキリストが内住し給うという恵みに生きる者となることができる。十字架と復活のキリストに合わせられて、心の底から神の恵みを共に喜ぶことができる者になるのだ。これこそ真の回復だ。神の前に本来あるべき立場を得るとはこのことだ。このような者が神との交わりを全く回復されるとは、何という恵みか(1ヨハ1:7)。

神の前に魂が全く回復された者にしていただこう。こちらが信じて従うなら、主はいつでも与え給う。