主のもの
イザヤ44:1-8
1,2節にイスラエルに対する3つの呼び名が記されている。「ヤコブ」、「イスラエル」、「エシュルン」だ。イスラエルの民のことだが、我らをも含む霊的イスラエルのことだ。
1節に、我ら贖われた者への呼びかけがある。我らは、何をさておいても主の言葉を聞くべきだ。なぜなら主の「しもべ」だからだ。我らはかつては罪の奴隷だった(ヨハ8:34)。罪が主人で、罪の命じるままにしか考え、行動できない者、罪の縄目に縛られ、自由を奪われていた者だった。
そのような我らを神は憐れまれ、御子イエスを世に送り給うた(ヨハ3:16)。罪なき神の子キリストが十字架につかれた(1ペテ2:22,23)。我らは罪を認め、悔い改め、十字架を信じて、罪の赦しをいただいた(1ペテ2:24、イザ53:5)。この救いを得て、我らはキリストのしもべとされ、真の自由が与えられた。
我らは主の手によって母の胎内にいる時から創造された(2,24節、ヨブ31:15)。そのような我らに、主は聖霊を注ぎ給う(3節)。キリストの十字架で贖われた魂に聖霊の注ぎを与え給う。ただ「潤いのない地」「乾いたところ」という自らの魂の現実を認めねばならない。そこから渇きが起こされる。主は渇いて待ち望む者にペンテコステの恵みを与え給う(ヨエ2:28,29)。待ち望むとは、砕かれ、悔い改め、渇き、信じて仰ぐことだ(詩34:18)。
4節に「彼らは、流れのほとりの柳の木のように…」とある(詩1:3)。流れとはキリストのことだ。キリストに結ばれ、絶えず恵みを得続けるのだ。流れのほとりに一度植えられて養分を得たら、そのほとりに居たいと願うだろう。その幸い、喜びを知るからだ。それは、かつてなかったことで、救いの恵みを知って味わう喜びだ。御言葉の前に出て、謙虚に聞き、従い続けたい(ヨハ15:4a)。聖霊の恵みを十分にいただき、かつ流れのそばにい続けたい。
主のもの(5節)とは、主が私の全てとなっている者、主に専属する者のことだ。我らは世に生かされているが、世には属していない。世から綺麗に聖別されていることが求められる(ガラ5:24)。
「ある者」とはクリスチャンの中のある者だ。主のものとなっていないのに「私は主のもの」と言い張る者だ。どこで主のものとなっているか否かがわかるかと言うと、①謙っているかどうか、②従っているかどうか、③愛の香が放たれているかどうか、だ。謙遜と従順と愛こそ主に所有された人の結ぶ実だ。
6節に主の呼び名が3つある。「イスラエルの王」、王として我らを治め給うお方だ。我らは従うべきだ。イスラエルを「贖う方」、我らを犠牲を払って救い出し給うたお方だ。我らは、恵みを思い知って感謝すべきだ。「万軍の主」、先頭に立って戦い、勝利をとり給うお方だ。我らはこのお方に委ねるのだ。
主は永遠の初めからおられ、永遠の先までおられるお方、天地を創造し、保ち、また破壊し、新創造し給うお方、アルファでありオメガであるお方だ(黙1:8)。主は“わたしこそ真の神である”と宣言し給う。ほかには神はいない。
神はイスラエルの民を永遠の契約の民とされた。実際は民は契約をないがしろにした。そこで神は、キリストの十字架の血によって信じる全ての者を永遠の契約の民とされた。永遠の契約だが、こちらの真実な応答が求められる。信じて従い続ける者を、神は決して捨て給わない(ヘブ13:5b)。
神は「おののくな、恐れるな…」(8節)と言われる。我らが主の証人であること、我らが主こそ神であることを証ししていくことを恐れてはならない。主は、ご自分こそ神であることを、創造の神、贖いの神、勝利の神であることを、昔から語ってこられた。我らはそのことの証人だ。ペンテコステの火をいただいて、主のものとされたい(43:1)。