火を燃え続けさせよ
レビ6:1-13
開くことが少ない本書だが、我らにとって大切な書で深い書だ。難解のようだが、新約の光で読むと意味が分かってくる。
神によって造られた人間が、キリストによって救われたら、聖くなりたいと願う。救われた者がいかにして神に近づき、神より恵みを受け、神を喜ばせることができるかを、この書によって教えられる。
完成した幕屋に主の栄光が満ち(出40:34,35)、その中から主が呼ばれた(レビ1:1)。かつてモーセはシナイ山の上で律法を与えられたが、ここでは幕屋の中から主の声を聞いた。キリストの十字架以後の我らは、主の声を聞くためには、もはや律法によって神に近づこうとしなくてもよい。キリストが内から我らに語り給う。
1~5章に5つの犠牲が規定されている。1章に全焼のいけにえ(燔祭はんさい)、2章に穀物のささげ物(素祭そさい)、3章に交わりのいけにえ(酬恩祭しゅうおんさい)、4章に罪のためのいけにえ(罪祭ざいさい)、5章に償いのためのいけにえ(愆祭けんさい)だ。
我らは神の前に滅ぶべき罪人をだった。しかしキリストが人となってこの世に来られ、罪人のようにして十字架で死なれた。我らは罪を悔い改め、十字架を信じて罪赦され、神に受け入れられる者になった。
しかし、自分の内にはなお、従わない己れ、御旨の成るのを望まない肉という神に喜ばれないものがある。キリストが十字架で死なれたように、自分も十字架で死に、キリストが復活されたように、自分の内に復活のキリストが生き給う。この信仰をいただいて、我らはキリストと共に神の国の相続人になる(ロマ8:17)。
8節以下に燔祭(全焼の献げ物)、素祭(穀物の献げ物)、罪祭(罪のためのいけにえ)の献げ方が述べられている(9,14,25節)。当時の祭司の務めは、民を助けて神に近づかしめることだった。そのために正しく犠牲を献げることが求められたのだ。
新約の光で見れば、祭司はキリストの姿を表わす。キリストご自身が燔祭、素祭、罪祭を献げ給うた。①主は自らを神への燔祭として献げ給うた。身も魂も残らず神のものとして献げきった生涯だった。②主は自らを素祭として献げ給うた。細かく砕かれた穀物の粉として、御心に全き信頼をもって従い通す生涯を送られた。③主は自らを罪祭として献げ給うた。罪なきお方が罪そのものとなって十字架にかかられたのだ。キリストは十字架の贖いをもって我らの罪を聖め、我らを神の御心に喜んで従う魂とし、身も魂も神に献げた者、神に所有された者となし給う。
このキリストの贖いをいただいて、「火はつねに壇の上にたえず燃(もえ)しむべし」(13節文語)とあるように、火を常に壇の上に燃え続けさせたい。その火とは、まず祈りの火だ。自分のための祈りだけではなく、執り成しの祈りだ。アブラハムのように(創18:22)、モーセのように(出32:32、詩106:23)、救われねばならない魂への愛と重荷をもって祈りたい(1ヨハ5:16a(元))。イエスは十字架の上で我らのために祈られた(ルカ23:34)。その主の執り成しによって我らは救われた。今度は我らが他のために祈る者とされたい。
また、その火は信仰の火だ。主への信頼と従順をもって、主を信じる信仰の火を燃え続けさせたい。そこに主はみわざを起こし給う(ヨハ11:40)。サタンは火を吹き消そうとしてくる。それほど信じないように、信頼しないように、従わないようにとささやいてくるが、徹底して信じ、信頼し、従いたい。
「火はつねに壇の上にたえず燃(もえ)しむべし熄(きえ)しむべからず」祈りと信仰の火を燃え続けさせよう。