受肉のキリスト
ヨハネ1:14-18
クリスマスがめでたい理由は、永遠の御方が、我らの救いのために、人となって我らのところに来られたからだ。
14節はキリストの受肉降誕を表す。1-5節には、イエスの栄光の姿が描かれている。「ことば(ロゴス)」とはキリストのことだ。キリストは永遠の初めから神と共にいまし、神ご自身であられた。この栄光の主が、肉体をとって我らのところに来られた。
神と共に在し給うた栄光の主が、人のただ中に下られ、人と共に歩まれ、人に憎まれ、拒まれ、裁かれ、十字架にかかられた。それは、恵みとまことを現すためだ。
1.キリストの恵み
我らが神の子どもとされると言う(12節)。これは福音だ。神は愛をもって我らを神の子どもと呼び給う(1ヨハ3:1a)。そのためには何か大変な努力をしなければならないだろうか。いや、何もする必要はない。求められるのは信じることだけだ(12節)。
キリストは、すべての人を照らすまことの光として世に来られた(9節)。そのキリストの言葉、御言葉の光に照らされて、我らに罪がわからせられる。認罪-悔い改め-十字架信仰の手順を踏んで、ただ憐れみにより、我らは罪が赦される(1ヨハ1:9)。これが恵みだ(ロマ3:24)。
2.キリストのまこと
我らは、お情けで神の子とされるのではない。支払うべき代価が支払われた。それが御子の血潮だ。キリストは、捨てられるはずのない神の子だったのに、十字架上で捨てられた。捨てられて当然の我らが捨てられず、救われるためだ。
義なる神(1ヨハ1:5)は、罪をそのまま見過ごしにはできない。罪に対してはきっちり裁きをくださずにはおかない。けれども、同時に愛なる神は、我らを滅ぼしたくないと思われた。ここに神のジレンマがあった。それが、十字架でいずれも満たされた。神の御子が罰せられることによって神の義は全うされ、我らが赦されることに神の愛が全うされた。キリストは、正当的な方法で我らに罪の赦しを与え給うたのだ。これがキリストのまこと、キリストの真実だ(1ヨハ1:7)。
律法はモーセを通して、恵みとまことはキリストを通して与えられた(17節)。元来、律法は神の愛の賜物として与えられたのだが、罪のために弱くなっていた我らには、律法は救いにならなかった。そのような我らのために、キリストが十字架で救いを成就し、恵みとまことを表された(使徒13:38,39)。
このキリストが我らのうちに宿った(14節)。ただキリストが我らの住むこの世に来られただけではない、わが内に住み給う。神と共に在し給うた御方が、我らの住むこの世に降誕されただけでも驚くべき恵みだが、さらに、このわが心を住まいとして内住し、我らを永遠に主の所有にし給う(イザ43:1)。
我らは、主の愛、柔和、従順など、主に満ちている全てのものをいただくことができる(16節)。「恵みの上にさらに恵みを受け」て、救われてもなお神に喜ばれない古き人を十字架につけ、信仰によってキリストの内住をいただくのだ(ガラ2:19,20)。この恵みのなんと深いことか。
神はこの恵みを与えようと、御子を遣われた。これは、我らへの愛の最高の発露だ。神の愛を疑ったり邪推したりしてはならない。素直に受けとめよう。
我らがキリストを内に宿し、キリストのごとく恵みとまことに満ちた者、愛と真実が溢れ出る者として歩む者にされるために、主は肉体をとって来られた。信じて従い、恵みとまことに満ちた方が、我らのものになるよう求めていこう。