まことの光として
ヨハネ1:1-13
アドべント(待降節)を迎えた。キリストの降誕を喜ぶクリスマスを心から待ち望みたい。クリスマスは、キリストが礼拝されるべきお方である事が明確にされる時だ。なぜ世界中でクリスマスが祝われるのかと言うと、キリストの降誕が我らの救いに直接かかわるからだ。
キリストとはどういう御方か。第一に、初めからおられた御方だ(1節)。キリストは神ご自身だった(2節)。キリストは神と共に天地創造の業に当たられた(3節)。その御方が人となってこの世に来られた(14節)。永遠の神が、限りある人間となって来られたのだ。
第二に、光として来られた御方だ(9節)。光は暗い部分を照らす。キリストは我らの心の暗い部分である罪を照らされる。罪とは、憎しみ、妬み、自己中心など、神に喜ばれない心と行いだが、その根は神からの離反であり、キリストを受け入れない心だ。
元来人は神のかたちに創造された(創1:26,27)。神のかたちに、つまり神との自由な交わりに生きる者として造られたのが人間だ。しかし、サタンにそそのかされ、神の御言葉に背き、神から離れた。人がキリストを受け入れないのはそのためだ(10節)。神は我らを愛し給うたのに、我らは拒否し、キリストを十字架に付けた(11節)。キリストの光は我らにこの罪を示す。
さらにキリストの光は、罪の赦しを与える(ヨハ8:11)。キリストは我らの罪のために十字架にかかられた。そして、十字架の上から我らに罪の赦しの恵みを与え給う。
第三に、神の子どもとなる特権を与える御方だ(12節)。罪のために滅びゆく我らを、神は「我が子」と呼び給う。我らはかつては罪の子、滅びの子だった。しかし、キリストの十字架の贖いによって神の子どもにされる。子どもは親に似る。神の子どもにされたら、神の性質に似る者になる。神の性質を受け継ぐ者になるのだ(2ペテ1:4)。神の性質とは神の愛、神の聖(きよ)さだ。罪人の我らをどこまでも愛し給うた神の愛(ヨハ3:16、ロマ5:8)をいただいて、我らも神と人を愛する者とされる。また、神の聖さ(1ヨハ1:5、2テモ2:13)にあずかる。神の性質たる光、いのちの光を内に持つ歩み(ヨハ8:12)をなす者になる。
自分には無理だと思ってはならない。これは神の約束だ(1ペテ1:16)。我らを神の子どもとし、神の性質にあずからせるのが光なるキリストなのだ。
神の子どもとなる特権は、一人の例外もなく提供されている。ただ信じること、素直に受け入れることが求められる(12節)。光が当らないように、光に探られないようにとすることも、できなくはない。しかしそれでは贖われた甲斐がない。光を光として受け入れる素直さがあれば、光は必ず届く。
イエスはまことの光として来られた。我らの魂を照らし、全き救いを与える御方、十字架の贖いを成し遂げて、我らを罪と汚れから全く救って、我らを神の子どもとし給う御方として来られた。信じよう。必要なのは信仰だけだ。
クリスマスは御子を信じる決断をする時、信仰を確かめる時だ。まことの光を受け入れて、新しい生涯を歩みだそう。