礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2018.11.04

主によって万事が可能

ピリピ4:4-20

パウロはローマの獄中から、この“喜びの書簡”をピリピ教会に書き送った。我らは、些細な事で不平・不満を言うが、パウロはどのような境遇でも喜び、感謝することができる生き方を歩んでいた。それは、生ける神を知っていたからだ。

 我らの神は、我らの一切の必要を満たし給う神だ(19節)。「私の神」と言いうるほどにパウロは神と親しい交わりを持っていた。その神は、栄光の富をもって、キリストの贖いを通して、我らをも富ませ給う。罪のために魂が貧しかった我らが、救いに導かれ神の子とされ(2コリ8:9)、朽ちず汚れず消えることのない神の資産を受け継ぐ者にされた(1ペテ1:4)。

 神の富、キリストの富とは、限りない神の愛、豊かな憐れみ、透徹した聖さだ。それをそのまま我らに与え、我らを罪の赦しの救いにあずからせ、さらに聖めて神の性質にあずからせるという。これほどの神を「私の神」として知っていたから、パウロは喜べたのだ。

神を知るとは、第一に、神に委ねることだ(6節)。思い煩いやすい我らが、思い煩わない秘訣は、全てを知り給う神に祈ることだ。八方ふさがりでも天は開いている。信じて祈れば、すべての理解を超えた神の平安が我らを守ってくれる。この平安は、魂に与えられる安らぎだ。キリストの十字架による罪の赦しをいただいて、初めて持つことが出来る。御子をも惜しまずに与え給うた神が(1ヨハ4:10)、我らの事を気にかけられないはずがない。この御方に委ねて、あらゆる境遇に処することができる。

第二に、内から強め給う御方を得ることだ。パウロが、およそ喜ぶことができない状況で喜ぶことができたのは、意志の強さや努力の賜物ではない。秘訣を心得ていたからだ(13節)。我らは不可能な事に囲まれているが、不可能を可能ならしめる御方がおられる。パウロがどんな境遇にあっても満足し、あらゆる環境に対処できたのは、この御方への信仰と信頼のゆえだった。

彼も、かつてはこの御方を知らなかったが、ダマスコ郊外で復活の主との出会い、三日間盲目になり、身動きができないという状況の中で、主を知らなかった罪を悔い改めると共に、己の無力さを痛感した。そして、内から強め給う御方、内住のキリストをいただいた。あらゆる境遇に処する秘訣とは、この御方ご自身だった。キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値(3:8口語)を知って、今まで価値を置いていたものが無価値になった。価値観の転換だった。

主によらなければ何もできない(ヨハ15:4,5)。主を信じるとは、もはや自分を信じないことだ。そこから主に対する絶対的な信頼が生まれる。これが主を信じることだ(創17:1)。あらゆる境遇に処する秘訣は、内にまで住み給う主だ。周囲の事情は変わらないかもしれない。しかし、こちらが信仰に立てば、すべてが変わる(ヨハ16:33、イザ40:31)。

何事でもすることができると言っても、何か特別な事ができるようになるのではない。何もできなくてもよい。十字架の血で罪赦され、聖められ、御前に傷なき者として立たしめられれば十分だ。我らをそうするのが福音だ。

主によって万事が可能だ。この信仰をもって、雄々しく前進していこう。我らを強め給うこの主こそ、神の栄光の富だ。この富を深く知りたい。我らを惜しみなく満たし給う神の前に出よう。