キリストの心
ピリピ2:1-11
本書は、パウロがピリピ教会に一致を勧めるために書いた書簡だ。この教会は、よく祈り、献げるすばらしい教会だったが、不一致の危機があった。サタンが喜ぶのは不一致だ。
5節は、文語訳では「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」だ。キリスト・イエスの心とは、イエスが神に対して持っておられた心、すなわち謙遜、謙卑だ。謙卑とは、神への信頼と御旨への従順だ。
キリストは神の御姿たるお方だった。神としての栄光、力、威光を持ち給うた(ヨハ1:1)。しかし、人となられた(ヨハ1:14a)。神のあり方を捨てられないとは考えられなかった。己れに死に切ったお姿だ。
主はご自分を無にして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられた。父からの信頼に応えて世に遣わされ給うた。③人としての性質をもって現れ給うた。我らとどこも違わない弱い肉体をまとって来られた。自分を卑しくされ、徹底的にへりくだった歩みをされた(1ペテ2:22)。ご自分のプライドや立場を守ろうとされるところは、全く無かった。
主は、十字架の死にまでも従われた(イザ53:7)。主は父のみ心に全く信頼し、従い通された。父に絶対的信頼を寄せられ、微塵も疑われなかった。栄光の御位から、我らと同じ人として、いや我ら以下の奴隷のようにして世に遣わされても、なぜと問われなかった。
その主が、一度だけ、十字架の上で「わが神、わが神。どうして…」と叫ばれた。我らのための叫びだった。罪のため捨てられて当然の我らは、そう叫ぶことができない。しかし、神に捨てられるはずのない神の子が、我らに代わって捨てられたため、我らはもはや捨てられない。悔い改めと十字架を信じる信仰により、赦罪と義認が与えられる。
十字架前夜、主はゲッセマネで、杯を取り退け給えと祈られた(ルカ22:42)。信頼し尽くした父から断絶されるという暗黒を、主は避けたいと思われたのだ。しかし主は「み心のままに」と、神のみ心に屈服された。主はそれで勝利を取られた。
「御心の成らんことを」とは、主の全生涯の姿勢だった。この主の信頼と従順あっての我らの救いだった。我らが救われたのは、我らも神に信頼し、み心に従うためだ。真の従順は、心からの信頼から生じる。信頼なしには従えない。自我が十字架で始末され、キリストが内住されるという恵みをいただいて、主のような神への信頼と従順がわが内にも成る。
これがキリストの心をわが心にするということだ。これがクリスチャンの姿だ。標準が高いと思うだろうが、我らが光に従い、御言葉に聞き従えば主が為し給う。問題はどれだけ渇き、従っているかだ。
「それゆえ神は、この方を高く上げて…」(9節)は、キリストの高挙を表す。復活-昇天-御即位だ。神は、御子の徹底した従順を見て、高く引き上げ、至高の名を与え給うた。キリストの名が至高であるわけは、我らを全く救う唯一の名、救いと聖潔を得させるただ一つの名だからだ(使徒4:12)。
この御名のもとに、あらゆる被造物は膝を屈める(10節)。「イエス・キリストは主なり」(11節文語)とは、“イエス・キリストはわが全てです”ということで、真に贖いの深さを体験し、主に献げ尽くした者の告白だ。内住のキリストをいただいて、主に全く献げて、「イエスは主なり」と申し上げ、そう生きる魂になりたい。
神の御子がへりくだられたことを知り、我らがキリストに倣う者として贖われていることを学びたい。キリストの心、キリストの謙卑がわが内に成るよう求めていこう。