風も湖も従わせる方
マルコ4:35-41
イエスは弟子たちとガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとされた。そこはデカポリス地方で、異邦人、しかもユダヤ人の嫌う豚を飼う人たちが住む所だった。しかし、イエスはそこに救いを必要としている魂が一人いることをご存知で(5章)、向こう岸に渡ろうとされたのだ。サマリアの女の時もそうだったように(ヨハ4:4)、イエスは一人の魂を大切にされるお方だ。
ところが、途中で激しい突風に遭い、舟が危険な状態になった。山で囲まれたガリラヤ湖には珍しい現象ではなく、元漁師の弟子たちは経験済みでもあった。しかし、その日の突風は今までになかったほどの激しいもので、彼らは恐れた。
そんな彼らの恐怖に輪をかけたのが、イエスの姿だった。この嵐の中で、舟の艫(とも)の方で熟睡しておられるのだ。ここから、人となられた神たるイエスの姿がわかる。まず、イエスも我らと同じ弱さを持つ人間であられたことだ(ピリ2:7)。イエスは、罪を除いて我らが経験する試練を経験されたからこそ、我らの弱さを思いやってくださるのだ(ヘブ4:15)。さらには、イエスはやはり神であられたことだ(ヨハ1:1-3、10:30)。この大嵐の中で熟睡できるのは、自然界の創造者である神に委ねておられたからだ。
もう一つわかることは、イエスは弟子たちを訓練しようとしておられたことだ。こういう湖の状況になることを、イエスはご存知なかったはずはない。主は、彼らをご自分の弟子として訓練するために、嵐になると予測された湖を渡って行こうとされたのだ。主の弟子は訓練されなければ、主に用いていただくことはできない。
そんなことを知らない弟子たちは、恐怖のどん底に突き落され、イエスをたたき起こした。彼らは、イエスが一緒におられるのに恐れた。彼らは、「私たち死んでも、かまわないのですか」(文語訳「師よ。我らの亡ぶるを顧み給わぬか」)と叫んだ。これはイエスの愛を疑っている言葉だ。イエスが今まで寝食を共にしてきた弟子たちのことを、死んでも構わない、滅びるのを顧みないはずがない。サタンはいつも我らを神の愛から引き離そうとしてくる。
イエスは風と湖に向かって一喝され、静められた。そして、イエスは弟子たちの不信仰を嘆かれた。彼らは、自分たちには信仰があると思っていた。しかし、実は信仰のかけらもなかったのだ。そのことを彼らは思い知らされた。信仰は、平静の時に“ある”つもりでも、いざという時に働かすことができなかったら、無いに等しい。自分の信仰はこの程度かと気づくことは大切だ。そこから主の前に出て行けばいい。
イエスは嵐を静められた。主は我らの嵐をも静めてくださる。まず我らの内に渦巻く罪の嵐を静めてくださる。自己中心や傲慢の罪を悔い改め、十字架を信じて、罪の赦しの救いを与えられ、平安を与えていただきたい。さらには、救われてもなお神のみ心を痛める自我を十字架につけ、内住のキリストをいただいて(ロマ7:15,17,24、ガラ5:24、ガラ2:19,20)、いつでもどんな事でも喜んでみ旨に従う魂としていただきたい(詩40:8)。こうして内側に吹き荒れる罪・汚れの嵐を静めていただき、全き平安をもって主の前に歩ませていただきたい。
また主は、我らのまわりに起こる様々な困難や試練の嵐を静めてくださる。主に信頼していけば、どんな嵐の中でも勝利がある。
弟子たちは、「いったいこの方はどういう方なのだろう」と言い合った。彼らは、まだイエスのことがよくわかっていなかったのだ。我らは、イエスがどういう方か、わかっているだろうか。十字架にかかって罪に勝ち、復活して死に勝たれた救い主であること、日々の生活の中で正しく導き、試練の中でも勝利させてくださるお方であることを知っているだろうか。知っていると思うほどに知らない場合がある(1コリ8:2)。イエスをもっと深く知り(ホセ6:3)、その恵みを十分にいただこう。そして、どんな状況の中でもこの主に信頼して従っていこう。