心を強くし、かつ勇め
ヨシュア1:1-18
3節のヨシュアヘの神のみ言葉は、我らへのみ言葉でもある。主はヨシュアに、ヨルダンを渡ってイスラエルに与える地に行けと語られた(2節)。出エジプトはイスラエルの歴史上、画期的な出来事だった。400年間の奴隷生活に終止符が打たれたのだ。そして彼らは今、さらに画期的な出来事の前に立っている。一切が後ろになり、全てが新しくされ、前途を望んで希望に満ちている。エジプトを出たのは、ここに入るためだった。今までの患難辛苦も、今日のためだった。
ヨシュアは、主が与え給う地に行くために、「心を強くしかつ勇め」と励まされる(6,7,9節文語)。彼が励まされなければならなかったのは、モーセの死と関係がある(1,2節)。モーセは民をエジプトから導き出し、シナイ山で受けた律法を民に与え、40年間、荒野で民を導いた偉大な指導者だった。彼なしに民はここまで来ることができなかった。その彼が死んだのだ。
120才にして目もかすまず、気力も衰えなかったイスラエル最大の預言者モーセ(申34:7,10)も、死には勝てなかった。民の失望と不安はどれほどだったか。そんな時、ヌンの子ヨシェアが後継者に召された。当然彼にプレッシャーがかかった。
まずモーセに比べれば若輩で経験も少ない。また、成人男子だけでも60数万人の大所帯を率いなければならない(民1:46、26:51)。さらには、彼らはすぐに呟く不信仰の民だ(申命記9:6,7)。だからこそ、彼には励ましが必要だった。民も彼を支持した(16-18節)。こうしてヨシュアは、主の励ましと、民の祈りによって、民を約束の地に導き入れる指導者になった。
民をカナンに導き入れたのは、モーセではなくヨシュアだった。これには象徴的かつ重大な意味がある。モーセは律法を象徴し、ヨシュアは“主は救い”との意味から、新約でイエスを表す。民が約束の地に入ったのは、モーセによらず、ヨシュアによった。我らが約束の恵みに入れるのは、律法によらず、キリストの恵みによる。
我らに約束されている恵みとは、第一に救いの恵みだ。過去の罪からの救いだ。我らは罪の奴隷であり(ヨハ8:34)、行き着くところは滅びだった(ロマ6:23)。しかし、わがために死に給うたキリストにより(ロマ5:8)、功なくして、恵みと信仰によって(ロマ3:24)、我らは赦罪と義認が与えられ、出エジプトした。
第二に聖潔の恵みだ。現在の汚れからの潔めだ。救われた後、我らは荒野の旅を続けている。傲慢、不平、つぶやき、わがままなど、肉の奴隷だ。どうすることもできない。しかし、主の救いは全き救いだ。十字架上で贖いを完成された主は、我らに、十字架による自我の死と聖霊によるキリストの内住を与え、罪に対して死んだ者、神に生きる者とし給う(ロマ6:11)。主になされた事は、我にもなされ得る事だ。
これがキリストによる新創造で(2コリ5:17)、我らの入るべきカナンの地だ。導き給うはイエスであって、律法ではない。律法ではなし得なかった事を主は成就し給うた。恵みによる贖いであり、キリストに対する信仰による全き救いだ。
主は「足の裏で踏む場所はことごとく、…与えている」と約束しておられる。恐れず、疑わず、信じて従おう。信仰に立ったヨシュアは、民に命令し、民も忠誠を誓った(16,17節)。我らもこのように答えたい。
ヨシュアが選ばれた理由は、①いつもモーセに付き従った者だったゆえ(出24:13)であり、②信仰のゆえ(民14:6-9、26:65)であり、③神の霊の恵みのゆえ(民27:18)だった。我らも主に従い、主に信頼し、御霊の励ましをいただいて前進していこう。