その福音によって
1コリント15:1-11
様々な問題が渦巻くコリント教会に、最後に残ったのは復活の問題だった。死をめぐる問題は人類普遍の疑問だ(ヨブ14:14)。
パウロは「兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を…」(1節)と言う。彼が伝え、コリント教会の人々が受け入れた福音とは、キリストの十字架と復活の福音だった(1コリ1:23,2:2)。
キリストは我らの罪のために十字架にかかって死なれた。罪の悔い改めと十字架を信じる信仰によって、我らに赦罪と義認が与えられる。またキリストは死の中から復活された。これを信じる者に永遠のいのちが与えられる。パウロはこの福音を伝えた。
律法主義者たちは、十字架プラス行いを、特に割礼の必要性を主張した。パウロは十字架と復活を信じる信仰のみと主張し、コリントの人々もこの福音を受け入れて救われた。そして、彼らはこの福音によって立ってきた。福音は一度受け入れることと、継続して立ち続けることが重要だ。転機的に救われ、継続的に従い続けるのだ。救われたのに福音に立ち続けなければ、信仰から逸脱する。
パウロが「最も大切なこととして伝えた」という宣教の内容は、キリストの死・葬り・復活・顕現だ。キリス卜の死とよみがえりは、最も大事なことであり、福音の神髄だ。ただキリス卜の上に為された過去の事実だけではなく、我らの魂のうちにも為される神の御業だ。すなわち、主が十字架で死なれたように、我もキリストと共に十字架に付けられて死に、主がよみがえられたように、我もキリストと共によみがえらされ、わが内に生ける主をお宿しする。罪の赦しに続いて約束されている聖潔(きよめ)の恵みだ。
しかも「葬られたこと」は注目すべきだ。自我が十字架に死んだら、葬られなければならない。“十字架に付けられた、死んだ”と言いながら、死んだ自分がちらつくのではなく、全く葬り去られなければならない。そういう魂の内に復活の主は臨み給う。そして内からキリストが働き出し給う。その姿は人にも分かる。この福音によって生きる者がクリスチャンだ。最も大事なこと、すなわち魂が生きるか死ぬかという、霊のいのちに関わることだ。
「そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも…」(8,9節)とは、パウロの謙遜だ。かつての教会の迫害者は月足らずで生まれたに等しいと彼は自覚する。使徒の中では最も小さい者で、使徒と呼ばれる価値のない者だとさえ言う。パウロほどの人物がそう言うのだから、我らはなおさらだ。我らは神への反逆者で、クリスチャンで最小の者だ。自分の罪深さを認めれば、心からへりくだらざるを得ない。福音は我らを全く謙遜にするはずだ。キリストが十字架にまでへりくだられたのは我らの救いのためであり、キリストが我らを救い給うたのは我らがへりくだった者なるためだ。
「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました」(10節)という彼の言葉は、こんな最小の者が今日使徒として奉仕できているのは、自分の才能、力量、功績のゆえではなく、ただ神の恵みによる、という神への絶対信頼の姿勢をうかがわせる。しかも彼は、自らは最小の者だが、働きは最大だと誇る。誰よりも多く奉仕したと胸を張って言えた。とるに足らぬ者とへりくだることと、少ししか働かないことは全く別だ。謙遜な者は、自らの小ささを認めながら、それでも神は恵みによって十分奉仕させ給うと信じて仕えるのだ。これが真実な姿だ。そのように謙遜にさせ、精一杯主に仕えさせるのも福音なのだ。
主の死とよみがえりの福音、主の死と葬りと復活と顕現の福音、己れに死なせ主が生き給う福音が、我らをへりくだらせ、全き心で主に仕えさせる(ヘブ9:14)。これが福音に生きる者の姿だ。
神の恵みは無駄にならない。いや、無駄にしてはならない。謙遜と真実が我らの姿になるように。