視(み)よ、これぞ神の羔羊(こひつじ)
ヨハネ1:19-34
イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて後、メシヤ待望の機運が高まり、人々はローマの圧政からの解放を願うようになった。そこヘイエスが降誕された。しかし準備が必要だった。その準備のために、バプテスマのヨハネが神から遣わされた。
イエスより半年前に誕生したヨハネは、主の道備えをするという特別な使命を負っていた。彼の使命は、人々に悔い改めのバプテスマを施すこととメシヤを証しすることだった。そんな彼のもとに、エルサレムから祭司、レビ人らが、公開質問状を持って派遣された(19節)。メシヤを待望していた彼らは、公然とバプテスマを施しているヨハネをメシヤかと思った。そこでヨハネが証しする。
彼はまず、自分について、①イザヤの預言した荒野の声(23節、イザ40:3)、②水でパブテスマを授ける者(26節)、③後から来る人の靴ひもを解く値うちもない者(27節)、と証しした。次に、イエスについて、①一人立たれる知らない方(26節)、②世の罪を取り除く神の小羊(29節)、③私よりも先におられた方(30節)、④御霊によってバプテスマを授ける方(33節)、と証しした。
イエスこそ世の罪を取り除く神の小羊だ。「神の子羊」と聞いて人々は何を連想したか。
(1)贖いの子羊。祭司は律法によって犠牲の子羊を献げて贖いの儀式を行った。儀式は毎年繰り返されたが、罪は決して解決されなかった。罪のために弱くなった人間に、律法は無力となり、動物の血は無効となった(ヘブ10:1-4)。
イエスは、律法で成し得なかった罪の贖いを、ご自身の血で完成された(使徒13:38,39)。それは、自ら律法の下で裁かれ、十字架にかけられるという方法によるものだった。主が死なれたから、我らは死ななくてもよい。主が裁かれたから、我らは裁かれなくてもよい。これが十字架の意味だ。
(2)従順な小羊。主は虐げられ苦しめられたが、屠(ほふ)り場に引かれゆく羊、毛を刈る者の前に黙る羊のように口を開かなかった(イザ53:7)。主は、ただ御心に従って十字架にかかられた。それは、我らをも従順な者にするためだった。我らをキリストのように従順な者にする、というのが贖いの目的だ。
「世の罪」とは私の罪だ。主は、私の過去の罪も現在の汚れも、ご自身の血で全く除き給う。罪の赦しと聖潔(きよめ)を与える神の小羊だ。
自分は水でバプテスマを授けるが、イエスは聖霊でバプテスマを授け給うお方だとヨハネは言った(マル1:8)。イエスの優位性を示すだけでなく、罪の赦しと聖潔という救いの二重性をも表す。認罪-悔い改め-十字架信仰の手順を踏んで、我らは赦罪-義認-神との和解-新生の救いをいただいた。水のバプテスマを受けてクリスチャンになった。さらに主は、我らを内側から造り変えて、全く潔め給う。御言葉の光に照らされれば、神に喜ばれない汚い己の姿が分かるはずだ。そのような自分を厭(いと)い、十字架を仰いで古き人を十字架に付け、キリスト内住の信仰をいただく。これが聖霊によるバプテスマだ。
イエスは聖霊によってパブテスマを授ける方(33節)、汚れを潔める聖霊の火のパブテスマを授け給うお方だ(ヘブ12:29)。このお方が我が内にひとり立ち給うなら(26節)、何も恐れはない。この御方によって、何事でも可能だ(ピリ4:13)。
まず除かれるべき罪が分かることだ。自分こそ罪人のかしらと認め、信仰をもって十字架を仰ごう。罪が除かれ、感謝と喜びをもって主に従う者にしていただこう。そして我らも「見よ…」と主を証しする者にしていただこう。十字架のキリスト、神の子羊以外に我らの救いと聖潔はない(使徒4:12)。