主の訓練を受けよ
ヘブル12:1-13
我らは、日々の生活の中で様々な試練に会う。時には意気阻喪することもある。しかし、主イエスは、我らの味わう試練はすでに全て味わわれた(ヘブ4:15)。我らの罪のためだった。だから、この主のことを深く思いみて、耐え忍べと奨められている。「考える」「思いみる」とは、大祭司イエスを信じ、仰ぎ見て従うことだ(ヘブ3:1)。これが「心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするため」の秘訣だ。
主から目を離せば弱り果て、失望落胆する。人を見ては失望し、自分を見ては絶望する。だから主を仰ぎ見るのだ。
「あなたがたは、罪と戦って…」(4節)とは鋭い言葉だ。罪と苦闘したことがない、己の罪の深さと真正面から向き合ったことがないと言われる。なぜか。奥に自己憐憫があるからだ。しかし、主は最大の恥、十字架の恥を忍ばれた。我らの罪のためだった。己の罪の深さは、罪なき神の子に血を流させるほどのものだった。罪の深さを知れば、その結果である滅びを知れば、罪に徹底的に抵抗したいと願うはずだ。「まとわりつく罪を捨てて」(2節)は、口語訳も新共同訳も「かなぐり捨てて」とある。主を思いみながら、徹底的に罪に抵抗したい。
5節以下に、主の訓練について述べられている。主は我らを愛するがゆえに、時には厳しい訓練を与え給う(ヨブ5:17,箴3:11,12)。困難や試練に会うとき、我らは敗北的態度や合理的・逃避的態度や克己的態度をとることが多いが、主が求め給うは、主の訓練として受けとめる態度だ。
なぜか。理由は、①愛されているからであり(5,6節)、②実子として扱われているからだ(7節)。主が我らを訓練し給う目的は何か。
(1)我らが真に生かされるためだ(9節)。真のいのちは神への従順から生まれる。どんな試みの中でも、主の御心に従うところに勝利といのちがあり、真に生きることができる。自分のために生きるのではない。我を愛し、我がために死んでよみがえり給うた主のために生きるのだ(2コリ5:15)。
(2)父の聖さにあずからせるためだ(10節)。神は我らに、神の完全を求め給う(マタ5:48)。神の完全とは聖さだ。我らも神の聖さにあずからせていただくことができる(2ペテ1:4)。
(3)義という平安の実を結ばせるためだ(11節)。それは、神に喜ばれ、受け入れられる魂とされることだ。「これはわたしの愛する子…」(マタ3:17)と神から信任されること、これ以上の平安はない。そして主に喜んでいただける救霊の実を結ぶのだ(ヨハ15:16)。
キリストは、神の御心に従って十字架の死に至られた。試練を神の訓練と受けとめられたとも考えられる。主は「御心の成らんことを」と従って従順を学ばれた。そのよう主を、神は高く引き上げられた。
我らも、試練の中にあるとき、「御心の成らんことを」と従って忍びたい。問題ばかり大きく見せて、絶望させるのがサタンの常套手段(じょうとうしゅだん)だ。イエスを仰ぎ見つつ従いたい。イエスを思いみよう。神は我らを愛してい給う。子として扱い給う。
主の訓練を耐え忍ぶために必要なものは、手と膝だ(12節)。手は信仰、膝は祈りだ。信仰は祈りとなって現れる。信仰の手が萎えると、祈りの膝が弱くなる。そして主の訓練に耐えられなくなる。
13節には「あなたがたの足のために…」とある。足とは日常生活の歩みだ。信仰は必ず実際の生活に生かされる。「自分の足でまっすぐな道を歩き」(新共同)たい。御言葉を聞いて消化してこそ自分の足で歩むことができる。主の訓練は、御言葉を通して身につく。主を信じて、主に祈りつつ、御言葉に従っていくことだ。
主に訓練された主の弟子とならせていただきたい。そしてこの終わりの世にあって、滅びゆく魂を主のもとに立ち返らせる宣教のわざに遣わされていきたい。
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