共に主に仕える
ヨシュア24:1-28
モーセに率いられて出エジプトしたイスラエルの民は、荒野の旅を経たあと、ヨシュアに導かれて、ヨルダン川を渡って、乳と蜜の流れる地(出3:8、レビ20:24)カナンに入った(3,4章)。不安だったヨシュアは主から励まされて(ヨシ1:6,7,9)、民をカナンに導き入れた。民はカナンを分割し、占領した。約束のとおり、土地は自分たちのものになった(21:43-45)。信仰をもって従ってきた者に、主は真実を尽くされた。
本章はイスラエルの民に対するヨシュアの晩年の言葉だ。彼は民に選択を迫った(14,15節)。かつて民が偶像礼拝に走った時、モーセも民に選択を迫った(出32:26)。ここでは特に事件があったわけではないが、民の中に偶像礼拝が蔓延し、日常化していたのだ(14,23節)。カナンを攻め取っていくうちに、先住民族と親交を深め、文化の交流が行われ、雑婚もあったのだろう(23:12)。知らない間に異教が流入していたのだ。
彼らはいつしか罪に無感覚になり、無抵抗になっていた。もっとも恐ろしいのは罪への慣れであり、罪に対する無感覚だ。大罪を犯すことより罪の日常化が恐ろしい。真に主に従っている者が奇異に映ったり、従っているようで従っていなかったり、どっちつかずになってしまったりする。カナンに定住した民も、そういう状態だった。だからヨシュアは、世を去る前に民を聖別しようとしたのだ。
彼は民に、主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えるよう命じた(14節)。真心、真実をもってでなければ主に仕えることはできない。主は真実を尽くし給うた。彼は、アブラハムとの契約、エジプトからの贖い、荒野の旅、ヨルダン渡河、エリコ攻略、先住民族への勝利…と、これまでの主の恵みを回顧した(2-13節)。主は、不信仰になりがちな民を愛し、忍耐し、憐れみ、導かれた。
主はいつも私たちに真実を尽くし給う(エレ31:3)。罪のために滅びゆく私たちを、御子をも与えて愛し給うた。価値なき者に赦罪と義認を与え給うた(1コリ1:27,28)。私たちも真実を尽くして主に仕えたい(ヨハ12:26)。
異なる神々を除き去ろう。主以外に仕えているもの、従わない己れがないか、自ら省みよう。そして、すべてを献げて主に仕えよう(マタ4:10)。
ヨシュアは「私と私の家は主に仕える」(15節)と言った。彼個人ではない。イスラエル全家が主に仕えるのだ。主の救いは個人に留まらず、必ず家族に及ぶ。要は「私」の信仰いかんだ。わが内に偶像がないか、主への純粋な愛があるか、心から従おうとしているか、小さい事にまで従っているかを探っていただこう。
民は「私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います」(24節)と明言し、証しの石が立てられた(26,27節)。神が民の誓いを聞かれたのだ。もうごまかすことはできない。真実が要求されるのだ。
真実に主に仕える家になりたい。家とは家族だけではない、教会でもある。共に主に仕える教会になりたい。一人も落ちることがあってはならない。心を一つにして真実な主に仕える教会になりたい。救いと聖潔(きよめ)の全き贖いを与えるキリストの十字架と復活の福音にあずかり、この福音に生き、この福音を宣べ伝える教会になりたい。