礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2018.06.17

イエスの血による新しい道

ヘブル10:19-25

主イエスの受難は、主の血潮の恵みが我らに与えられるためのものだった。「こういうわけで」(19節)とは前段落から受けている。旧約時代、罪を犯した者は動物を連れて祭司の所へ行き、その犠牲の子羊の血が祭壇に注がれ、羊は祭壇で焼かれるという儀式によって罪の赦しが与えられた。大祭司は年に一度、羊の血を携えて至聖所に入った。一年の罪の総決算だった。しかし所詮は儀式であり、罪を除き去れなかった(11節)。儀式は日毎、年毎に繰り返されたが不完全だった。

けれども、イエスは十字架で完全な贖いを成し遂げられた(12節)。一度だけご自身の体をいけにえとして祭壇なる十字架に献げられた。一度限りだが完全・永遠の贖いだった(9:12)。しかも、我らすべての人間の贖いだった(14節)。

このイエスの血によって、我らに赦罪と義認が与えられる。この恵みにより、我らは憚らず至聖所へ入ることができる(19節)。「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して」(20節)とある。聖所と至聖所との間に隔ての幕があった。大祭司のみ年に一度通ることができた幕だった。その垂れ幕が、主が絶命された時、上から下まで裂けた(マタ27:51)。その結果、信じる者は誰もが神に近づき、神との自由な深い交わりに入ることができるようになったのだ。

神ははじめ、人をご自身のかたちに創造された(創1:27)。人を神との自由な深い交わりに生きる者とされたのだ。神が御心を人につぶさに知らせ、人は神の御心がよくわかり、喜んでそれに従うという、人がエデンの園で神から与えられていた親しい交わりだ。それが回復されるというのが、イエスの死によって裂かれた神殿の幕の意味だ。イエスの血は、神との交わりの回復を我ら人間に与えるのだ(22節)。

「邪悪な良心」とは妙な響きがする。良心とは人間が本来持っている心で、善悪をわきまえる心、道徳心だが、それが罪のために邪悪になっている。決してイエスを知らない人だけのことではなく、神を信じている、クリスチャンだと言う者にも当てはまる。

パウロは自ら経験した内奥の苦悩を吐露する。愛したいと思うのに愛せない。妬みが生じる(ロマ7:15)。原因は何かと、妬みの糸を手繰り寄せると、内在の罪に行き当たる(ロマ7:17,20)。自分ではどうすることもできない。抑えつけても出てくる。絶望状態だ(ロマ7:24)。これは救われる前の彼の苦悩ではなく、すでにクリスチャンになった後の苦悶だ。自分の内の邪悪な良心と向き合い、苦しみ悶えているのだ。しかし、解決は主の十字架にあった(ロマ7:25a)。神がイエス・キリストを通して開き給うた道、十字架による全き救いだ。

十字架に二重の意味がある。過去の罪の赦しと現在の性質としての罪の聖潔(きよめ)だ。前者は、罪を悔い改め、十字架わがためなりと信じて与えられる恵みだが(ロマ3:24)、後者は、十字架に自分自身をつけて汚れた己と決別するのだ(ロマ6:6,11)。パウロが苦しんだのは、性質として残る罪であり、「神に感謝します」と言ったのは、十字架で始末をつけて、内住のキリストを頂くという解決を得たからだ。

我らもこのキリスト内住の信仰を頂き、その信仰で生きる者となる。そして、曇りのない全き信仰で真心から神に近づく者になり、イエスのように喜んで御旨を行う者になる(詩40:8)。完璧な人間になるのではない。失敗はする。しかし主は動機をご覧になる。

イエスの血によって開かれた新しい道は、律法によって神に近づこうとする古い道とは全く異なる、信仰によって神に近づく恵みの道だ。これは我らのために開かれている(20節)。我らを神に近づかせるのはイエスの血だけだ。

主は真実だ(23節)。行うと言われる以上、必ず行い給う。あとは我らが信じ従うのみだ。そのためには、御言葉の語られている所に出よう(25節)。かの日は近づいている。主の前に立たせられる日は近い。憚らず、大胆に、信仰の確信に満たされつつ、御前に立てる者にならせていただこう。