礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2018.06.10

主が戦われる

出エジプト14:10-31

イスラエルの民は、430年間の奴隷生活に終止符を打ち、出エジプトをした(12:40,41)。彼らは、追い出されるようにして、意気揚々と出国をした(12:33)。そこに至るまで、モーセは何度もファラオに交渉したが、彼は頑固に拒否し続けた。次々と神からの災いが襲ったが、ファラオはますます心を頑なにし、民を去らせようとはしなかった。

その彼も、すべての長子が撃たれることになって、徹底的に打ちのめされた(12:29,30)。自分の国民がいかに困っても崩れなかったファラオも、最愛の我が子が撃たれた時、崩れた。我らのうちの頑迷さも、最愛の一物が取り扱われる時、砕かれる。

災いは、子羊の血が塗られたイスラエルの家には及ばなかった。主は血を見て過ぎ越された。出国は子羊の血によった。これはキリストの贖いの予表だ。我らが罪から救われたのは、キリストの血による(1ペテ1:18,19)。我らの功ではなく、主の血の功だ(ロマ3:24、1ヨハ1:7)。キリストの血は、我らの立つべき拠り所だ。

イスラエルの民の出国の後、ファラオは再び心を頑なにし(14:5)、軍隊を率いて追撃した。民の宿営地にファラオの軍勢が迫った。後ろは紅海だ。武装していない彼らは、絶体絶命の危機に立たされた。

身勝手な民はモーセを非難したが(10-12節)、モーセは落ち着いて、主が戦い給うから黙せよと答えた(13,14節)。彼の沈着は主への絶対信頼のゆえだった。

子羊の血をもって我らを贖い出し給うた神は、今も我らのために戦い給う。だから、①恐れるな。恐れは不信仰から来る。②しっかり立て。主への信仰に立つべきだ。③黙せよ。ジタバタせず主に委ねるべきだ。

民が信仰に立ち、主に委ねた時、主は立ち上がられた。エジプト人も追ったが溺れ死んだ。真の神を信じる信仰がなかったからだ。イスラエルの圧倒的勝利だった(ロマ8:37)。

我らも勝利の生涯を送りたい。主の血によって贖われた我らは、勝ち得て余りある生涯を送るはずだ。なぜなら、主ご自身が我らのために戦い給うからだ。私が戦うのではない。主が戦い給う。自分の力、知識、経験がものを言うのではない。黙って従うのみだ(14節、詩46:10口語・文語)。全く空しくなって、ただ主に信頼するだけだ。

我が内の古き人は十字架に付けられ、空になった魂に主が内住し給う。そして主が我が全てとなり給う。主が内から戦い給う。困難は立ちはだかる。思いがけない災いもふりかかるかもしれない。人間の目には不可能と見えることもある。しかし主が戦い給う。この主に全面的に明け渡すことが勝利の秘訣だ(ピリ4:13)。

我らが黙らなければ、主は戦われない。一切を委ね、献げ尽くすなら、主は立ち上がり給う。生活のあらゆる場面で、生活全部において、主に戦っていただきたい。

主が救いをなし給う。①個人的な魂の救いを、救いと聖潔(きよめ)の全き贖いをなし給う。②教会のビジョンの達成をなし給う。③直面している問題の解決をなし給う。

主は先駆けとなり、またしんがりとなって戦い給う(19節)。この主を仰いで従おう(ヘブ12:2a)。主の戦いだ。黙して信頼しよう。主が勝利を賜う。