我を愛するか
ヨハネ21:15-23
ペンテコステから2週間たったが、聖霊を受けて大胆にメッセージを語ったペテロには、忘れられない出来事として、復活のイエスとの対話があった。よみがえりのイエスは「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に…」とペテロに問われた。なぜ他の弟子にではなく、ペテロに問われたのか。それはどういう時か、ペテロがどういう者かということに関係する。
1.どういう時か。弟子たちが不信仰になった時だ。主の復活された朝、彼らは恐怖と不安の中にいた。そこへ主が来られ、彼らは主を見て喜んだ(20:20)。主は彼らにガリラヤ湖へ行くように言われた。彼らは期待をもってガリラヤ湖へ行ったが、主にお会いできなかった。彼らは失望し、ペテロは元の漁師に戻ろうとした。主を信じられなくなっていたのだ。
ところが不漁だった。不信仰のままで労しても益は無いのだ。信仰もダウンし、仕事も行き詰まる八方塞がりの中で、主は岸に立ち給うた。主は彼らより先にガリラヤに来ておられたのだ(マル16:7)。その主の命に従って網を下ろすと、驚くべき大漁だった。岸に戻れば、主が食事を用意してくださっていた。彼らはひとかたならず慰められた。
2.ペテロがどういう者か。主を三度否定した者だった。彼は、自分だけはどこまでもイエスに従って行けると思っていた(マタ26:33、ルカ22:33、ヨハ13:37)。しかし、実際は主の予告どおり、主を三度まで否定した。自信は粉砕され、一番弟子としての面子(めんつ)を保とうとした己もたたきのめされた。もはやどんな弁解も通じない。
そんな彼に、主は「我を愛するか」と問われる。彼は「はい。主よ。私があなたを愛していることは…」と答えた。確かに主は、彼が本当に主を愛し、死に至るまで従って行きたいと願ったことを知っておられた。しかし、彼は結局自分が一番可愛いかった。いざという時、自分をかばい、守ろうとしたのだ。
これは我らの姿だ。我らも主を愛したいと願う。それは、主が先に我らを愛し給うたからだ(1ヨハ4:10)。我らは、生まれながらのままでは主を愛するどころか、神に逆らう者だった。そのような我らを、神は御子を十字架につけるほど愛し給うた(ロマ5:8)。我らは、ただ罪を悔い改め、十字架を信じた信仰のゆえに、恵みによって罪を赦された(ロマ3:24)。こうして救われた我らは、この主を愛する者として召されている。
しかし、実際はどうか。我らの愛は主以外のものに向いていないか。自分の家族、自分の仕事、自分の財産…すべて自分に属するものへの愛が、主への愛に優先していないか。結局はかつてのペテロ同様、自分が一番可愛いいのだ。それが自己の真相だ。
そのような己を十字架につけ、内にキリストを頂くなら、そこから文字通り何ものにもまさって主を愛する者になる。主がご自身を十字架に献げるほど我らを愛し給うた、その愛にお応えする者になる。
主を愛するとは、教会を愛することだ。なぜならキリストは教会のかしらであり、教会はキリストの体だからだ(エペ1:22,23)。主を愛すると言いながら、教会を疎んじるとするなら、贖いの恵みをよく知らない者だ。キリストの十字架の血で贖われた我らは、主を何よりも愛し、また主の体である教会を心から愛したい。
ペテロは復活のイエスに懇ろに取り扱われた。我らも主から取り扱われなければならない。そして、我を愛して我がために己が身を捨て給いし神の子を、心一杯愛したいという魂に変えられたい(詩31:23)。真に主に従う歩みはそこから始まる。
「汝この者共に勝りて…」との静かな御声を聞こう。これは主からの愛のチャレンジだ。このチャレンジに応えよう。信仰をいただいて、主を第一に愛し主に従いたい(2コリ5:15)。