力を着せられるまでは
ルカ24:44-53
エマオ途上で姿を現わされた復活の主(13節~)は、続いてエルサレムで現わされた。弟子たちは、目がさえぎられて主を認められなかったが、パンを裂かれる主を見て目が開かれた。また、心が鈍くなっていて聖書が悟れなかったが、心が開かれて御言葉の悟りを得た。目が開かれて、初めて十字架の贖いの深さがわかる。また、心が開かれて、初めて御言葉が開かれてくる(45節、詩119:130)。
不信仰だった弟子たちは、目が開かれて主を礼拝し、喜びに満たされた(ヨハ20:20)。鈍い心が開かれて御言葉がわかった。彼らは、主との楽しい交わりの40日間を過ごした。
復活の主は、昇天前に、①ガリラヤヘ行け、②福音を宣べ伝えよ、③都に留まれ、という3つの命令を与えられた。
①ガリラヤヘ行けとの命令。主が先頭に立たれた (マタ28:7)。主は先回りして、魚を焼いて待ち給うた(ヨハ21:)。彼らは大いに慰められた。「汝この者どもに勝りて我を愛するか」と問われ、ペテロも信仰を回復していただいた。
②福音宣教の命令。主は大宣教命令を与えられた(マル16:15、マタ28:19,20、ヨハ20:21、ルカ24:46-48)。弟子たちは、キリストの十字架と復活の証人、目撃者として宣教する使命が与えられた。
③都に留まれとの命令。主は、神から力を着せられるまでは都に留まれと言われた(49節)。一方で「出て行け」と言われ、他方で「留まれ」と言われる。それは、宣教の使命遂行のためには力が必要だからだ。弟子たちは弱く、信仰を失いやすい者だった。この重い任務に耐えられる者ではなかった。だから主は、都に留まれと言われた。
何のために危険なエルサレムに留まれと言われたのか。神から力を着せられるためだ。神の力、ご聖霊だ。単なるパワーではない。ご人格なるキリスト、つまりキリスト内住の恵みだ。
この恵みなくして、福音宣教の使命は果たせない。宣べ伝えようとすれば犠牲が伴う。しかし、恵みをいただいていなければ、犠牲など払いたくないと思う。自分が大切だからだ。自分が傷つきたくない、立場が悪くなるのはゴメンだと思う。結局は自分が一番可愛いのだ。主への愛と、滅びゆく魂への愛が宣教の動機であるべきだが、恵みがなければ重圧になる。これでは、主が遣わしたくても遣わすことができない。だから、上よりの力の約束を与えられたのだ。
主が十字架に死なれたように、己れも十字架に死に、主がよみがえられたように、自分も内に復活の主をいただく。これが力を得ることだ。これを得るために都に留まれと言われた(使徒1:4,5、8)。
我らにとって都とは、にぎやかな雑踏や人の声が飛び交う所ではない。主との二人きりの場、淋しい荒野だ。そして、それは御言葉の語られているこの礼拝、祈祷会だ。
「力を着せられるまでは」、明確な恵みを得るまでは、立ち上がらない。浅い所で軽々しく“いただきました”と立ち上がらない。十字架による自我の磔殺(たくさつ)が明確にされ、聖霊によるキリストの内住が鮮やかにされるまでは、安易に立ち上がらないことだ。
体験として恵みを得るまで求めよう。自己の真相を認める謙遜、いただかなければ進めないという渇き、主は必ず与え給うと信じる信仰をもって、求めていこう(マタ7:7)。聖霊は求める者に(ルカ11:13)、信じる者に(ヨハ7:39b)、従う者に(使徒5:32)与えられる。
我らにも福音が委ねられている。福音の証人、十字架と復活の証人になりたい。証言するためには、体験していなければならない。福音の体験者になりたい。そして、ここから遣わされていきたい。