礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2018.05.06

キリストにある大勝利

コロサイ2:6-15

ここに“in Christ”という言葉が多く使われている(6,7,9,10,11,12節)。深い意味がある。

「キリスト・イエスを受け入れた」(6節)とは、認罪-悔い改め-十字架信仰を経た魂のことで、そういう者が、キリストに結合し、キリストに根差して、キリストの中に歩むことができる。認罪-悔い改め-十字架信仰があいまいだと、そのように歩めない。土台がないから、不安定で信仰が堅くできず、確立できない。信仰の確立は、我流ではできない。昔、モーセが幕屋を山で示された型どおりに造ったように(出25:40)、信仰は教えられたとおりに従って初めて確立できる。

具体的に、キリストにあって歩むとはどういうことか。当時のコロサイ教会は、ギリシャ哲学の影響を受け、惑わされていた。知識偏重は警戒すべきだ。知識がキリストにとって替わってはならない。知識によって信仰を推しはかったりしてはならない。

キリストには、愛、聖さ、全知全能の力という神のご性質が満ち満ちているから、我らはキリストにあって満ち足りることができる(9,10節)。10節は元訳で「爾曹(なんじら)かれに在りて全備する事を得なり」とある。キリストを知れば神の全てが分かる。しかも、我らもその充足にあずかっている、つまり、キリストにあって我らも神のご性質で満ち溢れさせられているのだ。欠けだらけの我らが、全備しているとは!

秘訣はin Christだ。自分の力ではない、努力の結果や研鑽(けんさん)の賜物ではない。「キリストわが内にありて生くるなり」の恵みによる。「キリストの割礼」(11節)とある。肉にではなく、魂に刻み込まれる割礼、すなわち救いと聖潔(きよめ)だ。

我らは先には罪の中にあり(13節)、死んでいた者、滅びゆく者だった。しかし、御言葉の光に照らされて罪が分かり、悔い改め、十字架を信じて救われた。バプテスマの奥義は、自我の死とキリストの内住だった(12節、ロマ6:3,4)。救われ、洗礼を受けてクリスチャンになり、なお御言葉葉の前に出て行くと、醜い肉の姿が分かってくる。神に敵対し、己が腹を神とし、わがままで、愛のない己の真相に嫌気がさす。まさに我らを責め、さいなみ、暴き立て、不利に陥れる債務証書だ(14節)。

しかしキリストは、これを十字架につけて取り除いてしまわれた。わが内の古き人、自我、肉は十字架でキリストと共に死んで、葬り去られた。そのように信仰をもって決算するとき、よみがえりのキリストが内に生き給う(ガラ2:19b,20a)。もう自我に支配されていない。肉欲の奴隷ではない。キリストに支配されるキリストの僕だ。実際は肉体をもって生きているが、キリストを信じる信仰によって生きているのだ(ガラ2:20b)。

我らがいつまでも自我に支配され、肉の慾に隷属し、敗北の生涯を続けるようにとサタンはもくろむが、キリストは十字架の贖いをもってサタンの武装を解除し、誇らしげに凱旋された(15節)。その行列にはサタンが捕虜になっている。圧倒的な勝利の行進だ。先頭はキリストであり、そのあとに我らが続く。いかにも愉快な光景ではないか。

そのような勝利を主が我らに与え給う。主が取られた勝利を、我らの勝利として授け給う。こうして勝利した我らに、主は全ての祝福で全備し給う。クリスチャンとはなんと輝かしい祝福が与えられたものか。

我らはやがて天の御国に凱旋する。しかし、それだけではない、この世で凱旋できるのだ。キリストにあって圧倒的な勝利を収めつつ前進するのだ(ロマ8:37)。この光栄ある身分をわがものにさせていただこう。