惜しみない主への愛
マタイ26:1-13
イエスは、24,25章:で終末、裁き、天国についての教えを弟子たちに語られた。そして、本章で受難予告をされた(1,2節)。ユダヤ人らはイエスを葬り去る準備を進めた(3-5節)。
そんな時、「ひとりの女」ベタニヤのマリヤによる主への油注ぎがあった。彼女は高価な香油をイエスの頭に注いだ。少量だが300デナリに相当した(ヨハ12:5)。香油の香りが家いっぱいに広がった(ヨハ12:3)。イエスへの愛が溢れた様子を表す。
弟子たちは彼女を非難した。彼らには彼女の愛の行いが理解できなかった。特にイスカリオテ・ユダは自分の不正をごまかすために彼女をとがめた。しかし、主は「わたしに対してりっぱなことを…」と彼女を弁護された(10節)。主は彼女の行為の奥を見られ、動機が愛であることを認められたのだ。それだけでなく、さらに深いところを見られた。「わたしの埋葬の用意をしてくれた」(12節)と言われ、彼女のイエスへの信仰を見られたのだ。
主は我が罪のために十字架にかかり死なれ、葬られ給う。その主に最高の香油を献げたい。これが彼女の奥深くに与えられていた信仰であり、主が引き出し給うたのだ。
それまで弟子たちは再三、イエスから受難予告をきいていた(16:21、17:22,23、20:17-19)。しかし彼らは悟れなかった。それどころか、聞いた直後に自らの出世を願う有様だった(20:20)。マリヤは受難予告を主から直接は聞いてはいなかったが、おそらく傍らで聞いていた。そして十字架のイエスを信じていた。イエスはこの信仰を喜ばれたのだ。
主は、埋葬の用意をと言われた。我らも信仰による自らの葬りの準備をしたい。イエスが十字架で死に、葬られ給うたのは、私も死に葬られるためだった。葬られるべきは我が内の古き性質、救われてもまだ罪の性質だ。従うと言いながら本心は従いたくない、信じると言いながら心底からは信じていない、御心が成るようにと祈りながら、我意を通したい…結局は自分が一番大事という古き性質に縛られる己が、キリストと共に十字架で死に、もう二度と生き返ってこないように葬られる。
そうした魂が、キリストと共に甦らせられ、共に天の処に座する者になるのだ(エペ2:4-6)。「ともに生かし」と「ともによみがえらせ」の間に死がある。それが自我の死であり、葬りだ。信仰による己の死と葬りだ。
マリヤがそこまで開かれていたかどうかは不明だが、イエスが自分の罪のために死なれ、葬られることはわかっていた。だから葬りの準備として香油を主に注いだのだ。自分のためにいのちを捨て給う主だから、いかに高価な香油でも献げられた。これは主への愛を動機とする彼女の献身だった。
我らもこの献げ物を献げられる者になりたい。そのためにはまず魂の救いをいただこう。認罪と悔い改めをもってイエスの十字架の血を仰ぎ、赦罪-義認-神との和解-新生がはっきりした魂にされたい。
そこから、御言葉の光に照らされて(ヘブ4:12)、どこまでも己れをいとおしみ、可愛がり、庇い、憐れみ、正当化するという自分の姿がわかる。十字架の血は、罪の赦しのみか、汚れからの聖潔(きよめ)まで至らせる。主よりも己を愛する自我がキリストの十字架で始末され、内住のキリストを頂いて、信仰によりキリストによって生きる者にされたい(ガラ2:20a)。神の恩寵であり、我らの信仰による神のみわざだ。キリストの血はそこまで救う(1ヨハ1:7)。
我らもナルドの香油を主に献げたい。余り物ではなく、最高のものを献げたい(雅4:10)。主への愛を動機として献げるものが主に喜ばれる香りとなる(ロマ12:1)。主に喜ばれる真の献身者とされたい。一人一人が聖霊の宮となり、内からキリストの香りを放ちたい(2コリ2:15)。