福音の真理
ガラテヤ2:1-21
19,20節は、聖潔(きよめ)の信仰の旗印とも言うべき御言葉だが、どういう場面で語られた御言葉かをみてみたい。本書が書かれたいきさつに関わる。
パウロはかつてはパリサイ人、厳格な律法遵守(じゅんしゅ)者、かつ教会の迫害者だった。しかし復活の主と出会い、大転換を遂げ、異邦人に福音を宣べ伝える者になった。彼の福音とは、主の十字架と復活への信仰による救いの音信だった。行いによらず、信仰によって誰でも義とされる(=罪無しと認められる。初めから罪を犯さなかった者、一度も罪を犯したことがない者と見なされる)、これが福音だ(ロマ3:24、使徒13:38,39)。
この福音によって、ガラテヤの人々は救われた。律法を持たない彼らに、まさしく喜ばしい音信だった。ところが、律法主義者たちが彼らをかき乱した。「にせ兄弟たち」(4節)は、“信仰だけでは不十分だ。律法とくに割礼は欠かせない”と主張し、純粋な福音によって救われた者たちを次々と脱線させた。魂をつまずかせることは、なんと災いか。パウロは、激しい怒りと嘆きで筆をとった(1:6-9)。彼は信仰義認を再び強調した(3:11)。
このように、19,20節は信仰義認の文脈の中で語られている。しかも、直接のきっかけはペテロの行動だった(11-14)。彼は人の目を気にした偽善的行為に陥ったのだ。人の前での奉仕は我らも戒められるべきだ。
パウロは「福音の真理があなたがたの間で常に保たれるため」(5節)、「福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て」(14節)と言う。福音の真理とは信仰義認だ。ペテロは、コルネリオ一家の救いを通して、神は差別されない方と知り、福音の真理を学んだはずだった(使徒10:)。しかし実際は、福音の真理に留まっていないばかりか、従って歩いていなかった。パウロは、先輩格で教会の長老のペテロを公衆の面前で非難した。福音の真理のための戦いだった。
かつてはパウロ自身も、律法による義認を求めた。しかし空しかった。主との出会いで、信仰義認に目が開かれ、これこそ福音の真理と分かった。この真理をいのちをかけて宣べ伝えてきた。だから、真理が脅かされるなら、黙っておれなかったのだ。
信仰義認の真理は今日も脅かされている。“十字架信仰は大切だが、それだけでは不十分だ。やはり知識、奉仕、献金が必要だ”と聞くことがある。しかし、それらは救われた恵みに伴う結果であり、救われるためには、ただ十字架信仰だけが必要なのだ。
罪なき神の子が、罪人の私のために十字架に死なれた。悔い改めと信仰によって赦罪と義認が与えられる。行いによらず、信仰によるのだ(16節)。
「わたしは神に生きるために…」(19節)と言う。律法によれば、罪を犯した魂は死ぬほかない。パウロは、律法の義では落ち度がない者だったが、内側は汚れで満ちていた。傲慢で、冷淡で、何よりもキリストに反逆していた。彼は内心の罪に気づき、このままでは滅びる、律法によれば確実に死ぬとわかった。ところが、そんな自分はキリストと共に十字架に付けられた。自分の古き人、神に喜ばれない自我は、律法に従って十字架に死んだ。律法によって死んだ者には律法はもはや力がない。律法に死別したのだ。そして、キリストによって神に対して生きる者になった。自分が生きているのではなく、キリストが内から生き給う(20節)。
自分ではなくキリスト、これが福音の真理のもう一面だ。福音の真理とは、信仰による義認と、それに続く信仰による聖潔だ。聖潔は義認が土台だ。義認がはっきりしていなくては聖潔まで行かない。義認が明確になって、初めて汚れた存在がわかるからだ。
20節後半に「神の御子を信じる信仰によって」とある。御子の信仰、御子が御父に対して持っていた絶対信頼と絶対服従で生きる者になるのだ。そういう魂になりたい。神ご自身が願い給う(Ⅱ歴代16:9a)。
福音の真理に留まろう。福音の真理に従おう。義認が明確にされ、十字架を仰ぐ信仰に立とう。主は為し給う。