すべてを活かすいのちの水
エゼキエル47:1-12
神の選民イスラエルは、偶像礼拝の罪のために神の怒りによって滅亡し、捕囚の憂き目にあった。神は御名のために彼らを惜しみ、救おうとされ、エゼキエルを預言者として立てられた。彼は、神殿が破壊される11年前にバビロンに行き、民の悲惨な生活を目撃し、悔い改めて神に立ち帰るよう迫った。
エゼキエルは幻を見る預言者と言われ、本書にいくつかの幻が記されているが、40章以下には最後の幻が書かれている。彼は、バビロンにおりながら、幻の中で神の使いにエルサレムヘ連れていかれるという不思議な体験をした(40:1-2)。そこで彼は破壊された神殿に代わる新しい神殿の幻を見た。神殿の敷居の下から流れる川があった(1節)。川の水はくるぶしから膝、膝から腰へと深まり、さらに泳げるほどになり、ついに海に注ぎ込んだ(4-5節)。
これは、我らに対する神の救いがどういうものかを表す。この川とは何か。
1.救いの恵みの川だ。川は神殿の敷居の下、神殿の土台つまり十字架から流れ出している。救いの恵みは必ず十字架からだ。それ以外のところからはない。救いは律法の行いや努力によらず、十字架を信じる信仰による(ロマ3:24)。認罪-悔い改め-十字架信仰の手順を踏めば、赦罪-義認-神との和解-新生の救いが誰にでも与えられる。
この恵みは、初めは小さな流れだろうが、やがて深い流れになる。ユダヤの国の片隅でなされたカルバリーのみわざは、やがてローマ帝国を覆し、全世界に広がった。また、初めは家庭でたった一人の救いかもしれないが、やがて家族に、子孫に広がっていく。
2.聖霊の川だ。この流れもやはり神殿の敷居の下から、つまり十字架から発する。救われてもなお罪を犯し、従うことを喜ばない。御心よりも我意を優先させたい古き人のためだ。そのままでは神に喜ばれない(ヨハ6:63、ロマ7:24)。時間や努力が解決するのではない。解決は十字架にこそある。キリストが付けられた十字架に、意志と信仰をもって自分をも共につけ(ガラ5:24)、聖霊によるキリストの内住を信仰によっていただくのだ(ガラ2:20)。
聖霊は我らにいのちを与える水、全てを活かす命の川だ。クリスチャンとは、罪に死んでいた中から生かされた者だ。けれども、まだ真のいのちがない。喜んで御言葉を聞けないし、喜んで奉仕できない。礼拝すら惰性で出席している。いのちのない礼拝だ。日々の生活の中でも、不平・不満・愚痴ばかりで、喜びや感謝がない。よどんだ海のようなクリスチャン生涯だ。これでは神は満足されず、自分も満足しない。
そこに聖霊の川が流れ込むと、澄んだ海になる。いのちのあふれる礼拝を捧げ、喜びと感謝と賛美に満ちた生活を送ることができ、周囲にもいのちを与えていく者になる。勝利の生涯だ(ロマ5:3-5)。
「その水が聖所から流れ出ているから」(12節)とあるが、十字架から流れ出る聖霊の川でなければならない。この世の提供する水は、よどんだ水を清くはしない。全てを活かす命の水を得たい。聖霊の川を渡りたい。深さに段階がある。くるぶしは御霊による歩み(ガラ5:16)、膝は御霊による祈り(エペ6:18a)、腰は御霊による自由な奉仕(ヘブ9:14)、泳げるほどの深みは常勝不敗の聖霊に満ちあふれた生涯だ(ロマ8:37)。
主がここまで導き給う。なし給うは主だ。塩地のまま残る沢と沼になってはならない(11節)。自分も生かされないし、他をも生かせない。御声を聞かず、約束を信じず、低きに甘んじ高きを求めないとそうなる。へりくだった砕けた魂で求めよ。水は低いところに流れる。謙虚な心になりたい。
エゼキエルの幻は、捕囚からの回復の幻、未来の終末の幻であるだけでなく、今現実に現される幻でもある。信仰をもって得たい。