天の開かれた者
マタイ3:13-4:11
イエスは3年半の公生涯に出る前に、通らねばならない所が2つあった。ヨルダン川とユダの荒野だ。
第一に、イエスはヨルダン川へ下られた。それは「すべての正しいことを成就する」(15節)ためだ。罪なき神の御子イエス様は、悔い改めのバプテスマを受ける必要はなかった。しかし、イエスは我らを救うために、悔い改めるべき罪人の我らと同じ立場にまで下られたのだ。キリストの謙卑だ。これが正しい事、神の要求される事だった。イエスは徹底的に神のみ心に従われたのだ。
受洗後に何が起こったか。①天が開けた。神がイエスを通して何をなさろうとしているかという神のビジョンを見たのだ。それは、十字架の贖い、異邦人の救い、教会の建て上げ、そして新天新地まで見通したビジョンだった。②御霊が下った。王の就任式の膏(あぶら)注ぎだ。イエスは王の資格・権威・力を授けられたのだ。ここから御霊に導かれる歩みが始まった(ルカ4:18)。③天から声があった。「これはわたしの愛する子…」とは神からの信任の声だった。み心に従ってヨルダンまで下られ、罪人の一人のように受洗されたイエスに神は全てを任せられた。
イエスは天が開けて神のビジョンを見、御霊の膏注ぎを受け、父からの信任を受けられた。これはイエスだけに成されたみ業ではない。我らのうちにも成される。つまり我らも天の開かれた魂になるべきだ。天の開かれた魂とはどういうものか。
(1)ヨルダンまで下った魂。ヨルダンに下る必要のないイエスが下られた。降誕から十字架まで、謙卑の歩みだった。
(2)祈り無しにはやっていけない所に立った魂。ルカ3:21に「祈っていると」とある。自分の弱さに徹して“祈りなくしてはやれません”と祈られたのだ。イエスは祈り無しでもやれる己れを川底に沈めて来られたのだ。我らも自分でやれる、少しは良きところもあるという肉を十字架に付けたい。
(3)聖霊が臨まれた魂。己を川底に沈められたイエスに、御霊が臨まれた。聖霊は真に己を十字架に付けて虚しくなった魂に臨まれる。自己否定に徹した魂こそ、聖霊による積極へ進む(ヨハ5:19、ピリ4:13)。
(4)上からの御声をいただいた魂。イエスだから「これはわたしの愛する子…」と言われたのではない。神は全てのクリスチャンにこの声を掛けたいのだ。天の開かれた魂こそ、神の求め給う魂だ。
第二に、イエスはユダの荒野へ行かれた。サタンに試みられるためだ。御霊に満たされ、神に信任され、天の開かれた魂にサタンは黙っていない。天の開かれたクリスチャンには、猛然と戦いを挑んでくる。
イエスはもはや御霊に導かれねば行動されない存在になっておられた(1節、マル1:12、ルカ4:2)。断食の後空腹になられたイエスに試みる者が近づいた。サタンは最も弱いところを撃ってくる。彼の狙いは、イエスの神への正しい信頼を失わせようとすることだった。
3つのテストがあった。①“石をパンに換えよ”は神への信頼を半減させる巧みな誘惑だ。イエスは「人はパンだけで生きるものではなく…」と申命記の御言葉(8:3)より応答された。真に生きるのは神の御言葉によってだと、神への絶対信頼で応えられた。
②“飛び降りよ”とは、聖書の一個所(詩91:11,12)を取り出して全部とするサタンの方法で、歪曲した神への信頼への誘惑だったが、イエスはやはり申命記の御言葉(6:16)により神への絶対信頼で応答された。
③“サタンを拝め”とサタンはついに露骨に挑戦して来た。イエスは毅然たる態度で「退け」と一喝され、「主なるあなたの神を拝し…」と申命記の御言葉(6:13)で応答された。神への徹底した信頼と従順のお姿だった。
イエスの返答の御言葉は、律法の要、神のみ心の集約である申命記だった。イエスは神のみ心が分かっておられた(詩40:8)。神への絶対信頼こそ我らがサタンと戦える場だ。進もうとすればするほど誘惑は来る。しかし、神への正しい信頼に立てば、我らは勝利できる。
天の開かれた者、主に信任された者となって、主のもとから遣わされたい。