礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2017.10.08

まことの安息

マタイ11:28-30

このイエスの招きは、贖われた者たちヘのメッセージだ。イエスは、コラジン、ベツサイダ、カペナウムという、イエスを間近に見、御言葉を身近に聞いていながら信じなかった町々の不信仰を責められた(20-24節)。民衆は訳が分からず(16,17節)、町々は拒むというように、落胆すべき材料が整っている。「そのとき」(25節)、イエスは声を上げて神を賛美された。「これらのこと」、すなわち、福音によって魂が救われてくること(ルカ10:21-22)が知者パリサイ人・律法学者らに隠され、幼な子のような無学のただ人らに現されたからだ。キリストの救いは単純に信じて従う者に明らかにされる。

イエスの招きは、ヨハネ7章37,38節にもある。やはり救われた者に向けられた招きだ。イエスは私たちを招き給う。それは、神から全ての権威が与えられたからだ(27節)。あらゆる権威・権力がイエスに与えられた(コロ1:15-17,19、マタ28:18)。イエスの神への信頼と、神のイエスへの信任を見る。イエスの従順のゆえに、神は全てを任せられた。だから、イエスは28節の言葉を言うことができた。

イエスは、私たちに与えるものがあるから招き給う。イエスが私たちに与え給うものは何か。

 

1.安息、休み。重荷からの解放だ。ジョン・バンヤン著「天路歴程」に登場するクリスチャンが、重荷を下ろせたのはキリストの十字架のもとだった。罪なきお方が、私たちに代わって罰せられて、私たちを解放し給うた。罪から解放された魂に安息が与えられる。罪を認め、悔い改め、十字架を信じた者が、罪赦され、義と認められ、新しく生まれ変わるという救いが与えられる。

 

2.くびき。重荷が除かれ、休みが与えられたら、腰を落ち着かせてしまうのではない。そこからイエスと共なる歩みが始まる。しかし、そのままでは歩調が合わない。だからイエスはくびきを与え給う。くびきは自我が砕かれなければ負えない。どこまでも自分を愛し、正当化し、憐れむ自我、神よりも己の都合を優先させ、己を気持ちのいい所に置き、傷つかないように、嫌な思いをしないように、損をしないように努めようとする、神に喜ばれない肉の性質を、イエスは十字架に付けて砕き給う。

このままではやっていけないと絶望し、信仰をもって自我を十字架につければ(ガラ5:24)、キリストが聖霊となって内住し給う(ガラ2:20)。そこから真にイエスと共なる歩みが始まる。イエスが私たちに合わせ給うのではない。私たちをイエスに合う者とならせ給うのだ。決してしんどい歩みではない。「わたしのくびきは負いやすく」と言われる。自分で到達するのではなく、イエスが成し給う。

 

3.学び。イエスと共なる歩みに入れられた者は、時々刻々、イエスの謙遜と従順を学び続ける(ピリ2:5)。キリストが内に生き給うなら、キリストのかたちが日々成っていく(ガラ4:19)。失敗しても、ただ従い続ければ確実に成長する。

イエスが安息を与え給うのは、私たちをここまでするためだ。イエスの招きに応える者が安息を得られる。「すべて」だから差別はない(ロマ1:16)。謙遜と渇きと信仰をもって御前に出る者は、必ず導かれる。イエスの招きに応えたい。素直にイエスのもとへ行こう。